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程朱理学 : ミニ英和和英辞書
程朱理学[ほど]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほど]
  1. (n-adv,n) degree 2. extent 3. bounds 4. limit 
: [しゅ, あけ]
 【名詞】 1. (1) scarlet 2. red 3. (2) bloody 
: [り]
 【名詞】 1. reason 
理学 : [りがく]
 【名詞】 1. physical science 
: [がく]
 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge 

程朱理学 ( リダイレクト:朱子学 ) : ウィキペディア日本語版
朱子学[しゅしがく]
朱子学(しゅしがく)とは、南宋朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋程頤と合わせて程朱学程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学〕に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)〔〕と呼ばれた。
陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するというに依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。
== 概要 ==
朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわちであるとする)や程顥の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。そこでは、自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。
なお朱子のとは、形而上のもの、形而下のものであってまったく別の二物(「理気二元論」)であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、は、この世の中の万物を構成する要素でつねに運動してやむことがない。そして「気」の運動量の大きいときを「陽」、運動量の小さいときを「陰」と呼ぶ。陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出されるという。理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれている。「性即理」の「性」とは心が静かな状態である。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされるというのが、朱子学の説く倫理的テーマである。つまり、朱子学の核心は実践倫理である。朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」の内容である。その方法が「居敬窮理」である。「居敬」の心構えで、万物の理を窮めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきる(窮理)のである。ちなみに、朱熹の主張する「性即理」説は、陸象山の学説心即理説と対比され、朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、陳亮功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。
朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、慶元の党禁によって弾圧され、朱熹も不遇の晩年を送った。その後、一転して理宗の時代に孔子廟に従祀されることとなり、続く代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。その結果、科挙で唯一採用された朱子学を学ぶことが中国社会を生きる上での必要かつ十分条件として位置づけられるようになり、反対に科挙から排除された他の学説は一部の「偏屈な人あるいは変わり者」が学ぶものとする風潮が醸成されるようになった〔衣川強『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)p464-468 〕。
代、国家教学となった朱子学は、科挙合格という世俗的な利益のためにおこなわれ、また体制側でも郷村での共同体倫理確立に朱子学を用い、道徳的実践を重んじた聖人の学としての本質を損なうようになった。そこで明代の朱子学者たちは、陸九淵心学を取り入れて道徳実践の学を補完するようになった。この流れのなかで王守仁陽明学が誕生することになる。一方で胡居仁のように従来の朱子学のあり方を模索し、その純粋性を保持しようとした人物もいる。
代の朱子学は、理気論や心性論よりも、朱熹が晩年に力を入れていた礼学が重視され、社会的な秩序構築を具体的に担う「」への関心が高まり、壮大な世界観を有する学問よりは、具体的・具象的な学問へと狭まっていった。礼学への考証的な研究はやがて考証学の一翼を担うことになる。清代になっても朱子学は、体制教学として継承され、礼教にもとづく国家体制作りに利用され、君臣倫理などの狭い範囲でしか活用されることはなかった。
衣川強は理宗以来の朱子学の国家教学化の動き(科挙における他説の排除など)を中国史の転機と捉え、多様的な学説・思想が許容されることで儒学を含めた新しい学問・思想が生み出されて発展してきた中国社会が朱子学による事実上の思想統制の時代に入ることによって変質し、中国社会の停滞、ひいては緩やかな弱体化の一因になったと指摘している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「朱子学」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cheng-Zhu school 」があります。




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