|
稔 幸(みのる こう、本名若月央子(わかつき ようこ)旧姓野崎(のざき)、1964年6月16日 - )は宝塚歌劇団の元星組トップスターで現在は宝塚での芸名の他にNORU、のる(いずれも宝塚時代の愛称に由来)などの名前でイラストレーター、ディナーショー、司会などの活動をしている。 出身地神奈川県鎌倉市、出身校清泉女学院高等学校卒業。 == 来歴・人物 == 幼少のころから牧阿佐美バレヱ団系のバレエ教室や大滝愛子のスタジオに通っていたが、背が伸びすぎてしまう。海外留学を考えてオーディションを受け合格するも、両親が猛反対。結局両親のすすめに従い高校卒業時に宝塚音楽学校を受験、合格。 高校時代イラストレーターに就く事を真剣に考えていた時期があり、美術大学受験者向けのゼミに通い研鑚(ただし宝塚音楽学校受験の際、ゼミからは『うちのゼミから芸人は出したくない』と苦言があったという)。 1985年、71期生として宝塚歌劇団に入団。入団時の成績は10番。同期に元花組トップスターの愛華みれ、元月組トップスターの真琴つばさ、元雪組トップスターの轟悠、元雪組トップ娘役の鮎ゆうき(俳優・神保悟志夫人)らがいる。 同年『愛あれば命は永遠に』で初舞台を踏む。その後、星組に配属される。星組の先輩であった紫苑ゆうのことを永年慕っており、特にトップ就任後の稔の芸風や化粧・所作にコスチューム・プレイや貴族・偉人などの役どころを得意とした紫苑の影響が大いに反映されていた。 1998年、麻路さきの退団を受け星組トップスター就任。1999年の『WEST SIDE STORY』(トニー役)がお披露目となった。この時代はトップスター5人中4人が同期という時期であった(花組・愛華、月組・真琴、雪・轟、星・稔)。 2001年、『ベルサイユのばら2001―オスカルとアンドレ編―』(オスカル役)で相手役の星奈優里と同時に退団。長年に渡り“星の王子様”と親しまれていたことから、東京でのサヨナラ公演・千秋楽の楽屋入りの際、本物の白馬にまたがりオフィス街の角から登場した。 退団直後に会社員と結婚。結婚を発表するまで、劇団関係者をはじめほぼ誰も知らなかった。その後は出産などでしばらく活動を控えていたが、宝塚OGのイベントへの参加や、イラストレーションなどの活動を行っている。 現在はアーティストとして絵本の挿絵などで活動。また、宝塚での活動を生かし、ディナーショーやトークショー、司会業なども行う。 日本パペットセラピー学会の理事も務めている。 2011年11月には、『戦国シェイクスピア 其の2「ハムレット」より SHINGEN ~風林火山落日~』で、宝塚歌劇団退団後、初めて舞台出演を果たした。 2015年1月21日発売の宝塚歌劇団OGによるカバーアルバム『麗人 REIJIN』に参加。徳永英明の「レイニー・ブルー」をカバー。 実母のいとこに宝塚48期生(元星組娘役・当時の芸名は八千代環)で現在は歌手・歌唱指導者となった流けい子がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稔幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|