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稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1987年10月30日)は、日本の俳人、茶道教授であり、元女優である〔平井・鷲谷, p.73.〕〔角川, p.569.〕〔影山, p.46-47.〕〔''稲垣きくの''、コトバンク、2013年2月13日閲覧。〕〔''稲垣きくの''、''jlogos.com'', エア、2013年2月13日閲覧。〕〔''若葉信子''、''jlogos.com'', エア、2013年2月13日閲覧。〕〔''若葉信子''、日本映画データベース、2013年2月13日閲覧。〕〔''若葉信子''、''露原桔梗''、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月13日閲覧。〕〔''若葉信子''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月13日閲覧。〕。女優時代の芸名は若葉 信子(わかば のぶこ)、旧芸名露原 桔梗(つゆはら ききょう)〔〔〔〔〔〔、出生名は野口 キクノ(のぐち きくの)〔〔、俳優の宮島啓夫との婚姻時には、本名を宮島 公子(みやじま きみこ)とした〔。 == 人物・来歴 == === 新劇から映画女優へ === 1906年(明治39年)7月26日、神奈川県愛甲郡厚木町(現在の同県厚木市)に生まれる〔〔〔〔〔。生年月日および生地については、『現代俳句大系 第12巻 昭和34年-昭和43年』(角川書店)、『日本人名大辞典』(講談社)、『CD - 人物レファレンス事典 日本編』(日外アソシエーツ)等、俳人「稲垣きくの」を紹介する記事においては上記あるいはそれに準じた記述があるが、女優「若葉信子」を紹介する『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)、『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)では、「1908年(明治41年)7月23日」に「福井県福井市」で生まれたとする記述がある〔。父・野口佐市、母・九魔の次女で、のちに俳号の姓とした「稲垣」は、神奈川県高座郡座間村(現在の同県座間市)から野口家に婿養子に来た父の実家の姓である〔。 大正初年に同県横浜市西戸部町(現在の同県同市西区戸部町)に転居、その後、旧制・横浜女子商業補習学校(のちの横浜女子商業学校、現在の中央大学横浜山手高等学校)に進学する〔〔〔〔〔〔。同校在学中の1923年(大正14年)9月1日、関東大震災に罹災し、座間の稲垣家に疎開する〔。同校卒業後、東京市神田区の旧制・正則英語学校(現在の正則学園高等学校)タイプ科に進学、同学在学中の1924年(大正13年)、岡田嘉子、山田隆弥らによる新劇の劇団「同志座」に参加、同年初舞台を踏む〔〔〔。翌1925年(大正14年)、「同志座」が提携した、兵庫県西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社、同年に公開された桜庭青蘭監督によるサイレント映画『運命の小鳥』に出演、映画界にデビューした〔。当時の芸名は「露原 桔梗」であった〔〔〔〔。同年秋、プロレタリア作家・宮島資夫の弟で、同志座の先輩、8歳上の宮島啓夫と結婚する〔。1926年(大正15年)12月に同社を退社、夫の宮島とともに東京に移り、松竹蒲田撮影所に移籍した〔〔〔〔〔〔。 当時の松竹蒲田は時代劇を製作しており、翌1927年(昭和2年)2月5日に公開された中川紫郎監督の『鼠小僧』、同年4月8日に公開された同監督の『血風』等に「若葉 信子」の名で出演、市川松之助の相手役を連続的に務めた〔〔〔。同年11月に同撮影所が時代劇の製作を停止、現代劇に切り替わり、多くのサイレント映画に脇役として出演した〔〔〔。1928年(昭和3年)ころ、宮島と離婚している〔。この時期、神田のYWCAの古典文学の講座に3年間通っていたという〔。やがてトーキーの時代が到来し、1936年(昭和11年)1月15日、同撮影所の機能が、神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)に新設された松竹大船撮影所に移転したのを機に、同社を退社した〔〔〔。『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)には、退社の理由を「結婚」としているが〔、この時期に結婚の事実はない〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲垣きくの」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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