|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 稲 : [いね] 【名詞】 1. rice-plant ・ 稲妻 : [いなづま] (n) (flash of) lightning ・ 妻 : [つま] 【名詞】 1. (hum) wife ・ 二 : [に] 1. (num) two
ジェリー・モロー("Champagne" Gerry Morrow、本名:Gerard Etifier、1949年9月10日〔 - )は、フランス領マルティニーク出身、アフリカ系フランス人の元プロレスラー。 日本の国際プロレスでは、稲妻二郎(いなずま じろう)のリングネームで日本人陣営の一員となって活躍した。 == 来歴 == === 国際プロレス時代 === ジャック・クレインボーンことエドワルド・エティフィア(エディ・モロー)の実弟。パリのレスリング・ジムを経て、1971年に兄が日本での主戦場としていた国際プロレスに留学入門し、同年7月6日の『ビッグ・サマー・シリーズ』開幕戦において、エティフィア・ジェラールの名で佐野浅太郎を相手にデビュー〔『Gスピリッツ Vol.33』、P86〕。続く『ダイナマイト・シリーズ』より、トリニダード・トバゴ出身の黒潮太郎(テディ・ハーバード)に次ぐ留学生第2号であることから〔『Gスピリッツ Vol.33』、P82〕、稲妻二郎のリングネームが与えられた〔。 以降は日本人陣営の一員としてミッドカード戦線で活動したが、「正体不明の黒人覆面レスラー」という触れ込みのもと、ザ・ワイルド・ヌウやザ・キラーなどのマスクマンに変身し、外国人陣営としてシリーズに参戦したこともある。1974年6月に変身したザ・ワイルド・ヌウでは、7月13日に気仙沼にてラッシャー木村と金網デスマッチを行っている〔『Gスピリッツ Vol.34』、P69〕。この変身は一時的なもので、ほどなくして素顔に戻り〔、1975年1月には寺西勇とIWA世界ミッドヘビー級王座を争った〔『忘れじの国際プロレス』、P102〕。 1975年4月よりカナダに遠征し、マッドドッグ・バションが主宰していたモントリオールのグランプリ・レスリングにて、本名のジェラルド・エティフィアとして兄のエドワルド・エティフィアとのタッグチームで活動。日本同様にベビーフェイスのポジションで、クルト・フォン・ヘス&セーラー・ホワイトや、メキシコから来たビジャノ1号&2号などのチームと対戦した。11月からはエドワルドはエディ・モロー、ジェラルドはジェリー・モローと名乗り、スチュ・ハートが主宰していたカルガリーのスタンピード・レスリングに参戦。11月7日のタワーリング・インフェルノ戦で現地デビューした後、12月26日にエディとのコンビでミスター・ヒト&ギル・ヘイズからインターナショナル・タッグ王座を奪取、翌1976年2月20日にリッパー・コリンズ&ドン・ガニアに敗れるまで戴冠した。 タイトル陥落後は日本に一時戻り、1976年3月28日に蔵前国技館で行われた全日本プロレスとの対抗戦にも出場、園田一治から勝利を収めている〔『Gスピリッツ Vol.34』、P72〕。5月開幕のシリーズでは、フリーとして日本に逆上陸してきた上田馬之助とも対戦した〔。同年8月より再びカルガリーに渡ってエディとのモロー・ブラザーズを再結成し、ミスター・ヒト&ヒゴ・ハマグチの悪党日本人コンビやリッパー・コリンズ&ラリー・シャープのボディシャス・ブロンズとインターナショナル・タッグ王座を争っている〔。 以降も日本とカナダの両国での活動を続け、1977年2月開幕の『第6回IWAワールド・シリーズ』では、同時開催されたIWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにも兄と組んで出場したが、1回戦でサンダー杉山&剛竜馬に敗退、日本での王座戴冠は果たせなかった〔『Gスピリッツ Vol.34』、P73〕。4月からはジン・キニスキーが主宰していたバンクーバーのNWAオールスター・レスリングに登場し、シングルではジョン・アンソンやマイク・シャープ・ジュニアと対戦。エディ・モローとのコンビでは7月11日にNWAカナディアン・タッグ王座を獲得したが、8月22日にブラック・アベンジャー&テキサス・アウトロー(ボビー・バス)に敗れて陥落、この日が兄との最後のタッグとなったという〔。 1977年9月にバンクーバーを離れて西ドイツに遠征し、ミスター・ヒト、ビッグ・ジョン・クイン、イワン・ストロゴフ、パット・ローチなどが参加したハノーバー・トーナメントに出場。翌1978年はカルガリーに戻り、CFL出身の黒人選手ジョージ・ウェルズを新パートナーに、2月17日にミスター・ヒト&ミシェル・マーテルからインターナショナル・タッグ王座を奪取〔、ヒト&ミスター・サクラダの日本人チームとも抗争を展開した。 1978年7月には国際プロレスの韓国遠征に参加。最終戦の7月28日、ソウルにて当時大木金太郎が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した〔DVD BOX『不滅の国際プロレス 1974-1981』DISC-3(2007年、ポニーキャニオン)〕〔『Gスピリッツ Vol.34』、P75〕。その後もカナダと日本を行き来し、売り出し中だった阿修羅・原の教育係も吉原功社長から任されている〔。1979年11月からは鶴見五郎&大位山勝三の独立愚連隊との抗争が勃発、11月7日の弘前大会では鶴見との髪切りマッチに勝利し、鶴見を坊主頭にした〔『Gスピリッツ Vol.34』、P76〕。 1980年はバンクーバーにてスタン・スタージャックらと対戦した後、マイク・ジョージやジョー・ルダックが来日した4月開幕の『ビッグ・チャレンジ・シリーズ』に出場、5月16日の厚木大会での、阿修羅・原と組んでの独立愚連隊とのタッグマッチが国際プロレスにおける最後の試合となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェリー・モロー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|