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稲妻 雷五郎(いなづま らいごろう、1802年〔生年には1795年・1798年という説も存在する。〕 - 1877年3月29日)は、常陸国河内郡阿波崎村(現・茨城県稲敷市)出身の元大相撲力士。第7代横綱。本名は根本 才助(ねもと さいすけ)。 == 来歴 == 1802年頃に常陸国河内郡阿波崎村(現・茨城県稲敷市)で生まれる。佐渡ヶ嶽部屋へ入門後に錦嶋部屋へ移籍し、松江藩抱えの力士となった。 1821年2月場所、「槇ノ嶌」の四股名で幕下から初土俵を踏む。1824年10月場所で新入幕を果たすと同時に「稲妻」に改名すると、その場所では7勝1預2休の好成績を挙げ、1825年1月場所では小結に昇進する。その後もトントン拍子に出世していき、1827年には大関へ昇進した。看板大関ではなく、平幕1場所・小結2場所・関脇3場所を務めた後の大関昇進は異例の速さで、雷電爲右エ門をも凌ぐほどである。 1828年に京都・五条家から紫の廻しと注連縄、1829年には吉田司家から横綱免許を授与された。これによって両者の間で紛争が起きたが、徳川家斉の上覧相撲に際して阿武松緑之助とともに横綱土俵入りを披露する必要が生じたため、最終的には吉田司家側が折れる形で決着が付き、1830年には横綱免許が正式に授与された。その後は阿武松緑之助と競い合って江戸時代後期の相撲黄金時代を築き上げ、当時の川柳には * 雷電と 稲妻雲の 抱えなり * 稲妻は もう雷電に なる下地 などと詠まれ、雷電と比較されるほどの強豪力士だったことが伝わる。 現役引退後は雲州相撲の頭取を務めたが、藩財政緊縮の動きの中で抱えの力士が減少したため、大きな任務が無いまま終わった。一方で力士の粗暴を戒め、精神の鍛錬を進めた「相撲訓」を著し、死去する直前の辞世では「稲妻の 去り行く空や 秋の風」と残すほどの風流人だったといわれる。墓は、原宿の日蓮宗妙円寺(渋谷区神宮前)に存在する〔東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p220〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲妻雷五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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