|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 稲 : [いね] 【名詞】 1. rice-plant ・ 沢 : [さわ] 【名詞】 1. (1) swamp 2. marsh 3. (2) mountain stream 4. valley 5. dale ・ 電灯 : [でんとう] 【名詞】 1. electric light ・ 灯 : [ひ] 【名詞】 1. (1) light 2. lamp 3. lamplight
稲沢電灯株式会社(稲澤電燈株式會社、いなざわでんとう)は、現在の愛知県稲沢市を中心とする地域において、大正から昭和初期にかけて事業を行っていた中規模電力会社である。設立時の社名は稲沢電気株式会社(稲澤電氣株式會社、いなざわでんき)。 大手電力会社の一つで中京地方を地盤とした東邦電力(旧・名古屋電灯)の傘下にあった。自前の発電所を持たない配電専業の電力会社であり、親会社東邦電力から所要電力の供給を受けていた。 == 沿革 == 稲沢電灯の前身である稲沢電気株式会社は、1912年(大正元年)12月20日(登記日)、稲沢銀行関係者らによって設立された。当初の資本金は30万円で、同年12月25日より電灯用電力の供給を開始して開業した〔。 開業当初の供給範囲は中島郡稲沢町と南の大里村(どちらも現在は稲沢市)の2町村のみであったが、1914年(大正3年)に稲沢町の西明治村とさらに西側の祖父江町(現・稲沢市)まで供給範囲を広げ、稲沢町の東側でも1916年(大正5年)に丹羽郡丹陽村(現・一宮市)と西春日井郡春日村(現・清須市)、1918年(大正7年)に西春日井郡西春村・師勝村(現・北名古屋市)へとそれぞれ供給範囲を広げていった。配電専業であり当初から自前の発電所を用意せず、名古屋市を本拠とする名古屋電灯(後の東邦電力)から電力の供給を受けていたが、自社の事業拡大により、名古屋電灯からの受電量は当初の30キロワットから1920年(大正9年)には284キロワットへと増加した〔稲沢市新修稲沢市史編纂会(編) 『新修稲沢市史』本文編 下、新修稲沢市史編纂会事務局、1991年、pp.191-194〕。 1920年7月、稲沢電気は稲沢電機株式会社と合併して稲沢電灯株式会社となった。稲沢電機は名古屋電灯が稲沢電気に資本参加するために設立した会社と見られる。合併後の資本金は100万円となり、当時名古屋電灯社長であった福澤桃介が筆頭株主となった(ただし役員には就任せず)。稲沢電灯はその後、従来の供給範囲に隣接する中島郡千代田村に1920年9月から、同郡長岡村に1923年(大正12年)6月から電気の供給を開始した。供給量の拡大に伴って、1923年9月に稲沢町北山に自前の変電所を設置している〔『新修稲沢市史』本文編 下、p.269〕。 昭和に入っても順調な経営が続いたが、日中戦争下における電力国家管理の進展に伴ってその事業を終了した。政府は発電・送電事業を管理する国策会社日本発送電を設立する一方、配電事業者については整理統合を推進する方針をとった。親会社東邦電力では政府の指導に基づいて傘下の中小電力会社を統合することになった。1939年(昭和14年)4月、稲沢電灯では設立以来の社長であった山田祐一が辞任し、東邦電力常務取締役の市川春吉が新社長に就任。株式についても東邦電力系の東邦証券保有と東邦電力社長松永安左エ門が大株主となり、5月に東邦証券保有が東邦電力と合併すると稲沢電灯の株式はすべて東邦電力の所有となった。その上で同年8月1日、稲沢電灯はすべての事業を東邦電力に譲渡した〔。 稲沢電灯の事業を継承した東邦電力は、旧稲沢電灯の社屋を一宮支店稲沢営業所として引き継いだ。この後、さらなる電力国家管理により東邦電力は解散、稲沢営業所は1942年(昭和17年)4月より中部配電の一宮営業所稲沢電業所とされた〔『新修稲沢市史』本文編 下、pp.318-319〕。第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)5月、中部配電は解散して中部電力が発足し、現在では旧稲沢電灯の供給範囲を含む愛知県全域が中部電力の営業範囲となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲沢電灯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|