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稲津 重政(いなづ しげまさ)は、安土桃山時代の武将。日向伊東氏の家臣。日向国宮崎郡清武城主。 稲津氏は伊東氏庶流。伊東氏祐が日向に下向する際、付き従い被官化した家系。 重政は若くして才能を見出され、当主・伊東祐兵によって家老職に抜擢される。慶長3年(1598年)に清武城主に任じられ、朝鮮出兵にも参陣するなど重用された。 慶長5年(1600年)、石田三成と徳川家康の対立が激化すると、当時大坂にいた当主・祐兵の命によって嫡男祐慶が飫肥に戻され、祐兵の工作によって、黒田孝高の軍使宮川某が飫肥に使わされた。重政はこの宮川某と相談し、東軍への味方の証として、石田方の高橋元種の持城である宮崎城を攻略する計画を立てた。 10月1日、伊東勢の総大将として3千の兵を率いて宮崎城を攻撃した。守兵は城代権藤種盛の500であり、伊東勢の攻撃により落城した。この戦いをきっかけに伊東氏は島津氏と一時的な対立状態に陥り、重政は佐土原、穆佐(現高岡町)などを約50の小合戦を転戦しながら、宮崎城を守った。 しかし、宮崎城落城の時点で高橋元種は徳川方に恭順しており、本領安堵を約束されたため、宮崎城は高橋元種に返還されることになった。この事が契機となり重政は次第に家中で孤立し、更に伊東祐兵が病死して祐慶に代替わりしたことも拍車をかけることとなる。行状も荒れ始め、藩主祐慶は詰問状を作って重政を罷免しようとするが、重政は聞き入れず、ついに切腹を命じられた。これを聞いた重政は僅かな手勢で清武城に籠城するが、飫肥藩兵に攻められ討死した(稲津の乱)。享年29〔『日向記』に記述〕。 == 稲津の乱 == 『日向記』には以下の如く記されている。先の宮崎城攻めの際に重政が祐慶秘蔵の馬を借りて出馬しており、その返却の督促の使者として長倉三吉が出向いたが、重政は世の中の騒乱が治まるのを見計らって返す心算であったとして三吉に悪態をついた。これに三吉は、仮にも祐慶の代理で来ている者に対して無礼であると、脇差を抜いて重政に斬りかかる。重政は奥の座敷に逃げ、重政の家来である阿万三平が走り来て三吉を討ち取った。これを聞き及んだ山田匡徳、松倉久兵衛、長倉戎祐は密談の上で祐慶の母である松寿院へ報告、松寿院は重政を成敗せよと命じた。重政は密かにこれを聞き及び慶長7年10月12日に人質を取って清武城に籠城したと記述されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲津重政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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