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稲生の戦い(いのうのたたかい)は、弘治2年8月24日(1556年9月27日)に、現在の名古屋市西区で起きた戦いである。 尾張国の有力武将である織田弾正忠家で起きた、織田信長とその弟信行(信勝)との家督争いから起きた戦い。稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる。稲生は、尾張国春日井郡の庄内川に近い場所にある地名である。 == 合戦以前の情勢と経過 == 稲生の戦いを起こした信長と信行は、織田弾正忠家(以下、織田家)の織田信秀の子である。尾張下四郡を支配する守護代で清洲織田氏(織田大和守家)の重臣たる清洲三奉行の一人から頭角を現した信秀は、国内の分裂に加え、領土の隣接する三河の松平氏や駿河の今川氏、美濃の斎藤氏らと争って、一代で尾張国内外に勢力を拡大した。しかし、信秀は天文20年(1551年)に急死し、跡を嫡男で那古野城主の信長が継いだ。一方、信長の同母弟である信行は兄とは離れ、信秀晩年の居城である末森城に居住した。 信長は1555年、尾張守護の斯波氏の権威を利用して、主筋の清洲織田氏の下四郡守護代織田信友を滅ぼし、尾張守護所であった清洲城に移り、父の残した勢力を着実に拡大していった。しかし、信長は平素から素行が悪く「うつけ者」と呼ばれるほどであったのに加え、天文22年(1553年)には傅役であった平手政秀が自殺(諫死とされる)する事件が起こり、家中からは頭領に相応しくないと目されていたという。 こうした風評に加え、三河との国境の要衝の鳴海城を守っていた山口教継が謀反を起こして今川氏に寝返り、また1556年には美濃で政変が起こり、信長の舅であり後ろ盾であった美濃国主斎藤道三が嫡子義龍との戦いで敗死、さらに義龍と手を結んで尾張上四郡を支配する守護代で嫡流の岩倉織田氏(織田伊勢守家)が敵対するなど、信長の周辺は困難な情勢が続いた。 このような状況下で、信長では織田家をまとめられないと考えた信長宿老の林秀貞とその弟林美作守(通具)、信行老臣の柴田勝家らは、信長を排除し、家中でも評価の高い信行に家督を継がせようとした。そして、信行自身も織田家代々の名乗りである弾正忠を自称したり、信長の直轄領である篠木などを押領し、砦を構えるなどして、反抗の意思を示した。 このような不穏な動きは信長の察知するところとなり、8月22日、佐久間盛重に命じ名塚に砦を築かせた。そして8月24日、稲生原での合戦に至る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲生の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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