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稲生 若水(いのう じゃくすい、明暦元年7月27日(1655年8月28日)- 正徳5年7月6日(1715年8月4日))は江戸時代中期の医学者・本草学者・儒学者。名は稲生宣義、字は彰信。通称、正助。若水は号。別号としては白雲道人がある。 == 人物 == 父は淀藩の御典医稲生恒軒、本名は稲生正治。江戸の淀藩の屋敷で若水は生まれた。 医学を父から学んだ。その後、本草学を大坂の本草学者福山徳潤に学び、京都の儒学者伊藤仁斎から古義学派の儒学を学んだ。 元禄のころになると、彼の学識は広く知られるところとなり、学問、教育に熱心であった加賀金沢藩主前田綱紀も彼の名声を知り、元禄6年(1693年)に彼を儒者として召抱えられることとなった。 その際、彼は姓を中国風の一字で稲と称した。前田綱紀に「物類考」の編纂を申し出て採用され、当時における本草学のバイブルであった「本草綱目」を補う博物書である「庶物類纂」の編纂の下命を得た。そのため、彼は隔年詰という一年おきに金沢で出仕する特別待遇を与えられた。彼はその知遇に応えるべく京都で研究に努め、支那の典籍174種に記載されている動植物関係の記述を広く収集し、統合や整理、分類を施して、1697年に執筆を始め、362巻を書き上げて正徳5年(1715年)に京都の北大路の家で死去した。後に八代将軍徳川吉宗の下命で、若水の子、稲生新助や弟子の丹羽正伯らが638巻を書き上げて、計1000巻にわたる大著が完成した。稲生若水は漢方、薬物などを中心とした本草学に、動植物全体を対象とする博物学への方向性を備えさせたといえる。 門人には、野呂元丈、丹羽正伯、松岡恕庵らがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「稲生若水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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