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穴切遊廓(あなぎりゆうかく)は、山梨県甲府市にかつて存在した遊廓、赤線である。 == 穴切遊廓成立以前の甲府の遊廓 == 甲斐国では近世期に甲府城を中心とする甲府城下町が成立し、享保9年(1724年)には甲斐一国が幕府直轄領化され甲府は甲府勤番支配となる。 甲府城下町では城下南東部が発達し、江戸中期には城下東端の金手町・工町に、江戸後期には城下南端の緑町や西一条町など城下周縁部に芝居小屋や料理屋の集中する歓楽街が形成された。また、城下南東部は甲州街道の宿場であった甲府柳町宿(現在の中央4丁目)が設置され、旅籠屋に置かれた。 甲府城下町においては近世期を通じて常設的な遊郭は存在していないが、旅籠屋や料理屋における飯盛女(飯盛旅籠)の雇用が半ば公認されていたが、幕府直轄領である甲府においては飯盛女の設置が認可されにくく、わずかな期間のみの公認が成されている〔飯田、坂本、小林(1978) p.72、金子(2005)、髙橋(2008)〕。 明治時代に入ると払い下げられた城下南東の武家地に市街の中心が移動し、宿場の旅籠屋は上府中〔現在の甲府駅と武田神社の間のエリアの当時の呼び名。〕尊躰寺跡地(現在の甲府市天神町付近)へ移転させられることになり、明治4年に、山梨県初の遊廓である新柳遊廓が成立した。 大増楼、甲子楼、京庄楼など合計22楼を有する新柳遊廓は、所在地の当時の町名が増山町であったことから、甲府の人間に増山と言えば誰にでも当遊廓のことと分かるほど〔飯田、坂本、小林(1978) p.73〕、人々に知られる存在となり繁栄するが、1907年(明治40年)2月に大門口にあった福伊藤楼より出火した大規模な火災によって遊廓全体が焼失し、新柳遊廓の歴史は終わる。この火災は後に上府中大火と呼ばれるようになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「穴切遊廓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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