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穴山 信懸(あなやま のぶとお、生年不詳〔生年は嘉吉2年から宝徳2年間に想定されている(秋山 2009)〕 - 永正10年5月21日(1513年6月30日))は、戦国時代の武将。甲斐国南部河内領の国衆。 武田氏系図類によれば、父は甲斐国守護武田信重の次男・穴山信介〔天輪寺殿、官途名は兵部少輔あるいは形部少輔。〕で四男前後か、母は理関大師〔信懸の母については系図類には記されないが、信懸は山梨市矢坪の永昌院で行われた理関大師13回忌の施主となっていることから(『菊潭集』)、実母であると考えられている。なお、信介には嘉吉元年(1441年)に死去した前室と考えられている松岳寿貞大師がおり、応永33年(1426年)に夭折した嫡男乙若丸がいる。〕。兄弟姉妹は長兄の乙若丸(松岳院大華仁公)、次兄(桂林秋公)、三兄(宝珠院殿慶余公)で弟もいるほか、姉妹には慶寿院がいる。 室は『一蓮寺過去帳』に記される「衆一房 穴山殿御内方」か。子に信永(宗九郎)、信堯(刑部小輔)、信風(甲斐守)、清五郎〔永正10年に信懸を暗殺した清五郎については『勝山記』記事のみに名が見られ、各種武田氏系図類には一切名が記載されていないが、『平塩寺過去帳』には穴山清五郎に比定される可能性のある「清五郎」の名が記載されている。〕がいるという。娘は武田信昌室で、信縄母か。幼名は不詳、仮名は弥九郎〔高野山成慶院『武田御位牌帳』(『山梨県史』資料編6下所載)『武田家過去帳』(『山資』6下所載)〕、実名は「信懸」〔(高野山過去帳類、『菊潭録』、今川本『太平記』奥書などに拠る)〕。兵部少輔、刑部大輔、伊豆守を称する。斎名は臥竜、出家名は道義斎、道義入道。 == 略歴 == 穴山氏は甲斐国巨摩郡穴山(韮崎市)を本貫とする一族で、明徳4年(1393年)に河内地方を領する南部氏が陸奥へ移った以降に河内へ入部したと考えられている。戦国時代の甲斐国では応永24年(1417年)の上杉禅秀の乱で守護武田氏が没落すると国衆勢力が台頭し、穴山氏も郡内領主小山田氏とともに甲斐国の有力国衆として出現する。穴山氏には甲斐守護武田信春の子満春(武田信元)・同じく守護信重の子信介と守護武田家から養子が入っており、信介は高野山にいた信重が永享10年(1438年)に入国するのに先立って応永30年代に河内へ入り守護武田氏の勢力回復に務めている。 守護武田信重は甲斐国衆や守護代跡部氏との抗争が続く最中の宝徳2年(1450年)11月24年に死去したとされ(『鎌倉大草紙』『一蓮寺過去帳』)、『甲斐国志』では黒坂太郎討伐に出陣した最中に「穴山伊豆守」によって小石和の居館を焼かれ自害したという伝承を記している。なお、これに先立って同年3月19日に信懸の父信介が死去しており、『国志』に記される穴山一族による信重襲撃の背景には穴山氏の家督などをめぐる守護武田氏と穴山氏との軋轢が考えられている。 信懸は長兄・乙若丸が早世していたため家督を継承し、姉妹にも守護武田信昌室がおり武田宗家の外戚として良好な関係を築き、河内領南部(南部町)を本拠とした〔今川本「太平記」奥書『山梨県史』資料編6下(県外記録)所載〕。 信懸の事跡がはじめて現れるのは文明16年(1484年)9月で、信昌名代として堀越公方の家臣狩野氏とともに武蔵国称名寺に参詣している〔「鏡心日記」『県資』6下所載〕。また、駿河国守護の今川氏親、伊勢宗瑞とも交流があり、文亀3年(1503年)には氏親から借用した『太平記』の筆写を行っている〔今川本「太平記」奥書〕。 戦国期の甲斐国では守護武田家の当主信昌・信昌次男の油川信恵と信昌嫡男信縄が対立し〔「王代記」『県資』6上(県内記録)〕、守護武田家の内訌が有力国衆の対立と関係して甲斐国は乱国状態になり、信懸の武田宗家の内訌に関わっている。今川本『太平記』奥書(永正2年5月21日付)によれば、信懸は「当国主之叔父」と記されており、信懸は永正2年年記時点で甲斐守護であった信縄の叔父にあたると考えられているが、信懸の立場は信昌・信恵方とする説(黒田、平山)と、信縄方であったとする説(秋山)がある。 延徳2年(1490年)9月16日には「穴山・大井合戦」が起こっており〔、これは信懸と西郡(甲府盆地西部)の国衆大井氏の合戦であると考えられている。 延徳4年(1492年)6月頃には信縄と東郡の国衆栗原氏との「一河(市河)合戦が起きており〔「日国記」塩山向嶽庵小年代記」『県資』6上所載、「日国記」は『勝山記』の異本。〕、栗原氏の当主栗原大輔(民部大輔信遠か)が市河の大塚・大鳥居に布陣しており、同年7月23日に衝突するまで1ヶ月にわたる対峙が続いたという。『王代記』ではこの合戦の背景を信昌・信恵と信縄間の抗争としており、信懸もいずれかの立場で戦っていたと考えられている。 同年9月3日にも合戦が起こっており、この時は信濃国の諏訪矢ケ崎氏、駿河今川氏親の軍勢が介入しており、今川氏の介入は郡内地方の動向を記す『勝山記』以外の『塩山年代記』『王代記』に見られることから甲駿間の交通路のうち河内領を通過する河内路が利用され、信懸の要請であった可能性が考えられている(秋山、2009)。信昌・信恵と信縄間の抗争はその後も続き、明応7年(1498年)には明応の大地震の影響もあり和睦が成立し、信縄は甲斐守護に就任したと見られている。 文亀3年(1503年)には今川本『太平記』の書写を命じており、同書奥書(永正2年5月21日)によれば信懸は今川氏親から借用した『太平記』写本の作成において北条早雲から善本を借用したと言われ、信懸と早雲は盟約を結んでいたと考えられている。 その後も乱は甲斐の国衆勢力を巻き込んで継続し、永正2年(1505年)には信昌・信縄が相次いで死去すると〔「高白斎記」『県資』6上所載〕、家督を継承した信直(信虎)と信恵・国衆の間で抗争が展開される。穴山氏では信直との対応を巡り内訌が発生していたと考えられており、永正10年(1513年)に信懸は息子清五郎により暗殺されている〔「勝山記」に拠る。なお、信懸三回忌の際の香語を記した『菊潭録』では事件を5月21日であったとしている。〕。 信懸暗殺事件の背景については同族間の家督争い、あるいは領主権力の強化に伴う矛盾のひとつと考えられているが、穴山氏内部における信虎派の信懸に対する親今川派のクーデターとする見解(平山、1999)や、信虎による策謀であるとする見解(秋山、2009)がある。 穴山氏は信懸の子信風が家督を継承すると西郡の大井氏とともに駿河今川氏に属し、本拠を南部から下山(身延町)に移転している。信虎が国衆を制圧し甲斐を統一すると穴山氏も守護武田氏に従属し、信虎期から晴信(信玄)・勝頼期には信友・信君が武田親族衆として武田家中において高い地位を占めており、信懸期には皆無であるが信友期には発給文書も出現する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「穴山信懸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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