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穴山 信君(あなやま のぶただ / 穴山 梅雪(あなやま ばいせつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で、御一門衆のひとり。幼名は勝千代。母・南松院殿は武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたり、妻は信玄の娘である見性院で、武田左衛門とも称した。壮年期(永禄8年頃)に剃髪して梅雪斎不白と号したので、穴山梅雪の名でも知られる。後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。 == 生涯 == === 出生から家督相続 === 天文10年(1541年)、穴山信友の嫡男として生まれる。穴山氏は武田姓を免許される御一門衆に属し、信友・信君二代にわたり武田宗家と婚姻関係を結び親族意識が高かったと考えられている〔穴山氏の親族意識については、秋山敬「穴山氏の武田親族意識」『武田氏研究』(創刊号、1988年)のち『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003年)所収)〕。信友の頃には下山館を本拠に河内地方を領し、河内支配において武田氏による支配とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持っていた。 『高白斎記』に拠れば、天文22年(1553年)1月15日には甲府館に移っており、これは武田宗家への人質であると考えられている。永禄元年(1558年)11月には河内領支配に関する文書が見られ、父の信友は同年6月から11月頃には出家しており、このころには家督交代がなされたと考えられている〔なお、信友は永禄3年の桶狭間の戦い後の今川家との同盟確認など駿河との外交に従事している。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「穴山信君」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Anayama Nobukimi 」があります。 スポンサード リンク
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