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空乗寺 : ミニ英和和英辞書
空乗寺[くうじょうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 

空乗寺 : ウィキペディア日本語版
空乗寺[くうじょうじ]

空乗寺(くうじょうじ)は神奈川県藤沢市鵠沼にある真宗高田派の寺。寺伝によれば、延宝5年(1677年)に入滅した僧了受が江戸初期に開山・創建したと伝えられる寺院である。正式名は金堀山 空乘寺。本堂裏手墓地の大橋重政の墓は藤沢市の史跡に指定されている。
== 歴史 ==
金堀山空乘寺と号し、その創建については、新編相模国風土記稿によれば「永禄年中、僧了受創建す。」とあり、大橋式部卿龍慶の開基と伝えるが、大橋龍慶(後述)はこの段階では生まれていない。当山第二十四世慶龍は「空乗寺は永禄8年(1565年)の創立にして、了受法師の開基なり」と記しているが、空乗寺過去帳によると、住職の入寂は「延宝元年(1673年8月20日、釈勝入法師、当山一代。延宝5年(1677年9月3日、釈了受律師 当山開基」(慶龍は開山のことを開基としている)とあり、新編相模国風土記稿や二十四世慶龍の記録と相違する。当山第二十五世大橋円明は、「この寺伝(過去帳)はほぼ誤りないものであろう。」と判断され、「慶安2年(1649年8月2日8、地頭大橋重政、采地のうち(石上付近)9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜る」の記録があり、さらに「明暦3年(1657年2月、西善寺(真宗大谷派)、江戸移転に際し空乗寺に寺地2町7反4畝18歩を移譲」と空乗寺文書にあることから、それ以前から存在したと指摘する〔大橋円明(空乗寺前住職):『空乗寺について』(鵠沼を語る会会誌『鵠沼』第37号、1987年)〕。なお、山号の「金堀山」は、寺の北方に「金堀塚」という小山があった(現存せず)ことから来ている。明治初期、村人がこの塚をあばいたところ、人骨が出土したので、これを懇ろに供養し、1879年(明治12年)「首塚碑」を建てた。この碑は表面が剥離して永年判読不能であったため、地元の石材店、林一郎により2011年(平成23年)3月に建て直された。
空乗寺の朱印地は、鵠沼字石上にあった。このため、いわゆる「石上渡し」の石上から片瀬村字大源太岸への船渡しは空乗寺が支配した。安永4年(1775年7月、空乗寺寺領内の渡船場の件につき村内に争論と藤沢市史に見える。鵠沼村の大橋家知行地が上知された後も、9石の空乗寺寺領は残り、明治元年(1868年8月、上知されるまで続いた。空乗寺はこの朱印地のほかに、檀越その他からの奉納、寄進などに依る寺地を字藤ケ谷、同柳原、長久保山その他において田畑山林など数町歩をもっていた。しかし、若干寺勢が落ちた時代があったようで、享和元年(1801年)までに空乗寺再建という記録が残る。元治元年(1864年)あるいは慶応2年(1866年)、大暴風のため空乗寺本堂が倒壊した。この時の再建の記録は見あたらないが、明治3年(1870年)空乗寺、暴風のため再度倒壊した。1907年(明治40年)に二三世慶心が厚木の中古本堂を譲り受けて建て替えた(1909年(明治42年)説もある)。
最近の空乗寺の動きとしては
* 1982年昭和57年)4月11日、空乗寺、客殿改築工事完成。落慶法要
* 2000年(平成12年)10月、空乗寺ゆかりの22名の英霊慰霊碑造立
* 2004年(平成16年)6月13日、空乗寺、本堂改築工事完成。落慶法要
空乗寺現住職二十六世大橋信明師は獣医師免許を持ち、隣接して「大橋動物病院」を開設している。また、境内の裏手にある慈照堂に、動物の遺骨を収めてある。なお、現住職の姓は大橋であるが、江戸初期の旗本大橋家とは関係がない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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