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材木売(ざいもくうり)は、中世(12世紀 - 16世紀)期に存在した日本の行商人である〔小山田ほか、p.142.〕。平安時代(9世紀 - 12世紀)以降、材木を仕入れて販売した行商・店舗、およびその業者等を総称して、材木商人(ざいもくしょうにん)、材木商(ざいもくしょう)、材木屋(ざいもくや)と呼び〔材木商 、Yahoo!辞書、2012年9月10日閲覧。〕、本項ではこれについても扱う。 == 略歴・概要 == 9世紀後半、879年(元慶三年)の京都・祇園社(現在の八坂神社)の記録に、堀川十二町(現在の堀川今出川から堀川御池の範囲)の「材木商人」について記されている〔〔京都木材流通の変遷と北側丸太 、京都税理士協同組合、2012年9月10日閲覧。〕。堀川十二町の寄進によって、同地は祇園社の領地となり、「材木商人」たちは同社を本所とした「神人」の地位を得た〔。『京都嵯峨材木史』によれば、堀川の地に「材木商人」が居を構えて生業を始めたのは、794年(延暦13年)の平安京の造営に際して、輸送された木材が同地で引き上げられて使用されたことによる〔。現在はほぼ暗渠であるが、当時の堀川は、川幅が4丈(約12.1メートル)あり、貯木場として成立しえたという〔。堀川十二町の「材木商人」は「堀川材木神人」(ほりかわざいもくじにん)と呼ばれた〔枻、p.100.〕。 現在も地名に残る神奈川県鎌倉市材木座は、鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)に、相模国鎌倉郡和賀江津に設置された座「材木座」に由来する〔、2012年9月10日閲覧。〕。同地に現存する人工島、和賀江島は、1232年(貞永元年)に築かれた港湾施設である〔。興福寺の塔頭・一乗院(現存せず)が支配した山城国相楽郡木津(現在の京都府木津川市木津)にも、鎌倉と同時期の12世紀に「材木座」が置かれたとされる〔、2012年9月10日閲覧。〕。 室町時代に入り、1459年(長禄3年)には、堀川十二町の「堀川材木神人」たちは「材木座」を結成、堀川の貯木場を独占、大鋸挽たちの製材した「大鋸板」(おがいた)の販売権を独占した〔。この時代には、丹波国(現在の京都府中部ほか)、近江国(現在の滋賀県)、美濃国(現在の岐阜県南部)、安芸国(現在の広島県西部)、あるいは四国からの木材が、堀川の材木座に集約されるようになっていた〔。材木座は、京都堀川や木津、鎌倉和賀江津のほか、大和国奈良、和泉国大鳥郡堺(現在の大阪府堺市)に存在したことが知られている〔。この時代、木津で水揚げした材木は、京都・奈良で振売の販売を行っていた〔、2012年9月10日閲覧。〕。 15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「竹売」とともに「材木売」として紹介され、袴を穿き、板材を束ねる姿が描かれている〔。同歌合は京都の都市部に見られる「職人」(商工業者、芸能者)をピックアップしており、図においてこの「材木売」が小刀を帯刀しているのは、身分が「神人」であるからであり、「堀川材木神人」であることを示している。この歌合に載せられた歌は、 * よし野木の 材木なれば あたひをも 花におほせて はなたかるなり というもので、吉野材の価値を歌っている〔岩崎、p.107.〕。 中世の時期、「問丸」(といまる)と呼ばれる商人が現れ、海岸や河川の港で、貨物の保管・輸送・販売を行った〔、2012年9月10日閲覧。〕。16世紀には「仲買」が現れ、やがて「問丸」が江戸時代(17世紀 - 19世紀)に入り、卸売商人である「問屋」へと発展し、流通のシステムが変革されていく〔〔、2012年9月10日閲覧。〕。江戸における「材木問屋」は、その当初は「仲買」と「小売」を兼ねていたが、のちに分化していく〔。「材木屋」と呼ばれた小売商店は、製材を行う職人である「大鋸引」(木挽)、ならびに筏師(川並鳶)を配下に抱えていた〔。江戸・八丁堀で材木商を営み、寛永寺本堂造営への材木提供で財をなした人物が、紀伊國屋文左衛門である〔、2012年9月13日閲覧。〕。 近代以降については、''木材商'' を参照。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「材木売」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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