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立山重工業(たてやまじゅうこうぎょう)は、鉄道車両やロードローラーなどの特種用途自動車を製造していた日本の企業。 1934年に本江機械製作所(もとえきかいせいさくしょ)として設立され、富山県富山市下奥井1丁目に本社工場を置いた。1953年に敦賀セメントへ納入した25t C型機まで、戦時中を中心に確認されている限りで460両以上〔一説には468両とされる。ただし、創業から製造打ち切りまで一貫した製造番号が与えられておらず、460両以上であることはほぼ確実ながら、その正確な製造両数は判明していない。〕の蒸気機関車を製造した。 == 沿革 == * 1934年4月 - 株式会社本江機械製作所設立〔『日本全国諸会社役員録. 第43回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕 * 1939年12月 - 日本鉄道車輛製造工場組合加入 * 1941年12月 - 車輛統制会設立加入 * 1943年4月 - 立山重工業株式会社と改称 * 1946年6月 - 産業車輛工業会設立加入 * 1949年3月 - 工場閉鎖〔事実上の倒産。ただし車両製造は少数ながらその後も継続。〕 * 1950年10月 - 資産等を道益産業株式会社へ譲渡 * 1952年3月 - 道益産業より立山重工業清算人へ資産等を返還 * 1953年5月26日 - 清算人により資産の競売を実施。工場は大谷製鋼所株式会社社長の大谷米太郎が落札。これにより大谷重工業富山工場へ改称され、即日大谷製鋼所へ譲渡、大谷製鋼所立山工場へ改称。これと前後して機関車生産終了 * 1957年 - 大谷製鋼所立山工場、富山工場へ改称 * 1968年12月 - 大谷製鋼所解散 * 1969年1月 - 旧大谷製鋼所富山工場、大谷製鉄株式会社として独立 * 1988年 - 富山県新湊市(現射水市)に新工場を開設。旧工場を閉鎖 本江機械製作所はその名の通り技術者であった本江忠義らによって創設されたが、本江自身は本江機械製作所の設立から立山重工業の工場閉鎖までの間に一度も社長に就任しておらず、会社そのものは第二次世界大戦後の財閥解体まで大口の出資者となった野村財閥の傍系会社という位置付けであった。また、戦時体制下で軍用機関車製造を行っていたため、大戦末期には名古屋俘虜収容所第8分所が置かれ、戦時俘虜の労働派遣先に指定されていた。 立山重工業としての工場閉鎖は戦後の需要減〔特に大口顧客であった海軍の消滅は大打撃となった。〕による経営難が主因であるが、その一方で戦後の労働運動に由来する人件費の激増と人員削減の困難化も大きな要因であった〔1947年9月17日に開かれた第1回国会参議院労働委員会(会議録はこちら)において、当時既に立山重工業の経営が事実上破綻していたことと、その一因が過大な余剰人員と労働運動の激化による賃金の高騰にあったことが地元富山県選挙区選出の小川久義議員により指摘されている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立山重工業」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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