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自由党(じゆうとう)は、明治時代の日本の政党。1890年(明治23年)の結成時の党名は立憲自由党(りっけんじゆうとう)だったが、翌年に自由党へ改名した。1898年(明治31年)に憲政党の結成に伴い解散した。 == 歴史 == 1890年(明治23年)8月25日、自由党、愛国公党、大同倶楽部が合流して立憲自由党を結党した。9月15日には九州同志会が合流した。 第1回帝国議会では130名を占めて第1党となる(院内会派名は弥生倶楽部)。当初は立憲改進党とともに民力休養を掲げて、政党内閣の確立を目指した。 1891年(明治24年)には山県内閣が提出した予算を巡って政府と激しく対立した。ところが、2月20日、大成会の天野若円が提案した大日本帝国憲法第67条に関わる予算削減について衆議院において審議する場合には事前に政府の了承を得るという提案を巡って、これに反対する党内の大勢にも関わらず竹内綱などの一部議員(土佐派)がこれに賛成した(実は提案自体が天野と土佐派幹部が政府に譲歩を促すために策して行ったものであったとされる)。これを巡って党内は紛糾し、土佐派は離脱して板垣退助を擁して自由倶楽部を設立するなど一時分裂するが、星亨の仲裁によって3月19日に板垣退助を総理(党首)に迎えて自由党へ改称、議会政党として組織強化に努めた。一方、盟主を失った自由倶楽部は同年に解散して復党し、分裂を回避した。 同年、板垣は立憲改進党の大隈重信と会談して連携(民党連合)に合意する。これに対して第1次松方内閣は1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行ったため、大井憲太郎や松田正久ら幹部を含めた多数が落選した。同年、星亨との主導権争いに敗れた大井憲太郎ら自由党左派は東洋自由党を結党した。 第2次伊藤内閣になると、1893年(明治26年)の「和衷協同の詔(わちゅうきょうどうのしょう)」をきっかけに藩閥が超然主義を捨てて行財政改革を行うなら譲歩の用意があるとの路線に修正し、逆に立憲改進党が吏党である国民協会と結んで硬六派を組織したことを非難して民党連合を解消、伊藤内閣と自由党と硬六派の3つ巴の対立構造となる。だが、条約改正・日清戦争の遂行を目指す伊藤内閣は自由党に妥協して硬六派と対立する路線を選択し、1895年(明治28年)に両者の提携が宣言されて板垣が内務大臣として入閣した。同内閣の崩壊後に成立した第2次松方内閣では、立憲改進党の後身である進歩党と結んだことから再び野党となる。だが、地租増徴問題で進歩党が野党に回ると、これと連携する。これを機に合同論が浮上し、1898年(明治31年)6月20日に自由党と進歩党は合同して憲政党を結成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「自由党 (日本 1890-1898)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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