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立法議会(りっぽうぎかい、)は、フランス革命期の1791年10月1日から1792年9月5日まであった、フランス王国の立法府である。フランス初の立憲君主制政体の議会であった。一院制で、憲法制定国民議会によって制定された1791年憲法に従って召集され、8月10日事件の後、国民公会のための議員選挙を行ってから解散した。正式名称は立法国民議会()であり、立法議会は略称である。 == 概要 == 1789年8月26日のフランス人権宣言の原理は、その後の革命の急展開により修正を迫られた。平等主義の萌芽が慎重に取り除かれた1791年憲法では、人権宣言は冒頭に掲げられてはいるが、言論や身分的、あるいは経済的な自由の保証に留まって、ブルジョワジーの優位を確定するような方向で、議会や選挙制度にも制限が設けられた。同法においては、市民権は全フランス人が持つわけではなかった。参政権は「大きな社会的企業の株主たる」能動的市民(男性)に限定された。受動的市民は「公権の形成に積極的に参加する」権利を持たないとされ、300万人とも言われる無産市民は選挙権・被選挙権を持たず、政治から排除された。土地改革も棚上げ状態で、2000万ともいわれる農民は最初から無視されていた。さらに代議制は二重の間接選挙制で、有権者が議員を選ぶ選挙人を選ぶという方式であり、選挙人となるにはさらに厳しい財産資格が設定されていた。このため当時のフランスの有権者は約430万人と人口の17%ほどとなり、選挙人に至っては5万人程度と推定され、それは人口の0.2%ほどに過ぎなかった。よって実際には、アンシャン・レジームの頃の貴族や僧侶といった特権身分が独占していた政治参加の権利が、そのままブルジョワジーに入れ替わっただけでなく、身分制議会のときよりも有権者の数が減ったという点においては民主主義の後退で、事実上、上流ブルジョワの政治独占を意味した〔しかしフイヤン派の分離に見られるように、そのブルジョワジーも立法議会では分裂していて、有効な立法活動や政権運営ができなかった。内閣はフイヤン派からジロンド派、さらにフイヤン派に戻るが、結局は総辞職に至るわけである〕。「旧体制の廃墟の上に自由主義原理を打ち立てた」と表現されるこの体制を、91年体制と呼ぶが、パリのサン・キュロットにとっては大いに不満の残る制度だった。 1791年9月30日、憲法制定国民議会が目的を達して解散した時、議員ロベスピエールの提案により、法を作った者がその法の恩恵に預かるのはいかがなものかということで、制憲議員であった者は新議会にはなれないように決議されたが、結果的に10月1日に集まった立法議員はほぼすべてが新人議員という経験に乏しい議会となった。「国民議会」は継続されたが、議員を総入れ替えしたわけである。しかし未熟な政治は、いたずらに対立するばかりで、無計画の戦争を起こしたり、党派主義による政治の停滞を招き、従来の財政再建といった宿題を解決できぬまま、戦況の悪化や、ルイ16世の拒否権乱発の前にさじを投げ、崩壊するに至った。空の国庫、暴落する為替通貨、アッシニアは紙同然となり、規律のない陸軍、士官のいない海軍、国内外の混乱と混沌が後には残された。これらが立法議会が1年も続かずに短命に終わった原因である。 1792年、8月10日事件で起こったことの背景には、共和派がのような直接民主制をベースにした民衆の直接行動を原動力としたことにあり、フランス革命の主体は、ブルジョワジーからサン・キュロット(別の言い方をすればプロレタリアート)に決定的に移っていった。つまりは事件は、立法議会で参政権がないとされた彼らが、王政のみならず議会も転覆させた第二の革命という性格があったということで、以後の革命の急進化は必然だったと言える。 他方、立法議会では、現在も使われる右翼や左翼という派閥イデオロギーの表現も登場した。議長席からみて右側が王党派や立憲君主派、つまりフイヤン派が議席を占め、左側が共和派であるジャコバン派(ジロンド派を含む)が議席を占めて、討論をしたからである。ちなみに立法議会では、フイヤン派の方がジャコバン派よりも数が多かったが、両派閥とも最多派閥ではなく、中立派と呼ばれる態度不鮮明の議員が最も数が多かった。政党政治ではなく党が存在しなかったので、議員は個々人の政治信条に従って行動したが、全員が国王に忠誠を誓った身であり、立法議会は君主国家の議会であって、共和派は最後まで少数の急進派に限られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立法議会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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