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立田山裕教 : ミニ英和和英辞書
立田山裕教[やま]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

立田山裕教 ( リダイレクト:薩洲洋康貴 ) : ウィキペディア日本語版
薩洲洋康貴[さっしゅうなだ やすたか]

薩洲洋 康貴(さっしゅうなだ やすたか、1957年6月7日- )は、鹿児島県指宿市出身で、1980年代に活躍した大相撲力士井筒部屋(入門時は君ヶ濱部屋)に所属していた。最高位は西前頭筆頭(1988年3月場所)。本名は吉崎 克幸(よしざき かつゆき)。現役時代の体格は183cm、150kg。得意手は突き、押し、叩き、引き。
現在は、年寄立田山である。
== 来歴・人物 ==
乾物店の長男で、指宿市立北指宿中学校では柔道に打ち込んでいた。鹿児島実業高校に進学してからも柔道を継続するつもりであったがレギュラーになれず、困っていたところ相撲部に勧誘されて相撲に転向。
高校在学中に君ヶ濱部屋へ入門し、1976年1月場所にて、18歳で初土俵を踏んだ。1978年1月から、師匠(元関脇鶴ヶ嶺)の年寄名跡変更に伴い、所属の部屋名が井筒部屋となった。
当初の四股名は、本名でもある「吉崎」。その後、1982年9月より、故郷の地名(薩摩)にちなんだ「薩州洋」に改名している。1983年1月場所前には「薩洲洋」に再改名し、以後、引退までこの名で通した。
高校時代に相撲部で活躍した経験を持ちながら、出世は決して早い方とは言えなかった〔そのため、一時は入門せずに大学進学しようと考えていたという。〕が、1984年7月場所では同部屋の寺尾改め源氏山〔1場所で元の「寺尾」に戻した。〕と同時に十両へ昇進。そして、1986年9月場所で新入幕を果たした。初土俵から10年8ヵ月を要しての入幕で、この時すでに29歳となっていた。
高校時代は右四つ相撲を得意としたが大相撲入り後は突き、押しを中心とした取り口に変え、重い突っ張りの取り口で活躍した。しかし、突っ張りを出すスピードが遅かったため、幕内上位陣には通じなかった〔横綱・大関陣との対戦圏内には2度進んだが、いずれも4勝11敗に終わっている。〕。現役終盤期には立ち合いかわされただけで、自滅同然に膝から落ちる相撲が増えていった。
序ノ口に付いた1976年3月場所から引退直前まで一度も休まず、「1077回連続出場」という記録を残した。西幕下7枚目の地位で全休した1992年9月場所を最後に、35歳で引退。
現在は年寄・立田山を名乗り、陸奥部屋付きの親方として後進の指導に当たっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「薩洲洋康貴」の詳細全文を読む




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