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立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代の武将で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である〔本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮社、2015年)114頁〕 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。 == 生涯 == === 生い立ち〜立花家相続 === 永禄10年(1567年)8月18日、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣・吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる〔『立斎公御年譜』による。〕〔中野等『立花宗茂』(吉川弘文館、2001年)1-3頁〕。幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改める。永禄12年(1569年)、父・鎮理が前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、元服後は高橋統虎(むねとら〔「統」は大友義統から偏諱を賜ったもの〕)と名乗る。 天正9年(1581年)、男児の無かった大友氏の重臣・戸次鑑連(立花道雪)〔立花氏の名跡は継いでいたが、主君・大友義鎮(宗麟)から禁じられていたため、生前は立花姓を使用したことは無い。〕が統虎を養嗣子として迎えたいと希望してきた(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたる)。紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、8月18日〔だが、立花山に入城するのは10月25日。『立花公室略譜』〕、宗茂を道雪の養子として出している。このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と結婚して婿養子となり、名も戸次統虎(べっき むねとら)と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られたが、誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。 同年7月27日(一説は11月6日、後述の戦闘と混同の可能性がある)、養父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに出陣し、秋月氏と筑紫氏との観世音寺の戦い後、同日に嘉麻・穂波の戦い(石坂の戦いともいう)で初陣を飾る。八木山の石坂の地で紹運は敵軍正面に弓・鉄砲・長槍隊を三段に布陣し、道雪の伏兵が側面より奇襲する戦法を採った。この合戦で宗茂は50人を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂に組みかかって来たが、相撲得意の宗茂は彼を圧倒し、家臣の萩尾治種(萩尾大学)が堀江を討ち取って手柄を立てた。 同年11月6日にも同じ戦地で戦闘があった。立花勢は朽網鑑康の救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実や問註所鑑景(統景の大叔父)との原鶴の戦いで戦闘した後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。それからの過程は7月の戦闘とよく似ているが、両軍の激戦は立花300余、秋月760の合わせて1,000を超える死傷者をだし、当地には千人塚の名が残された。この戦を立花方は潤野原の戦い、秋月方は八木山の戦いと記した。 天正10年(1582年)4月16日、宗茂は秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍2,000との岩戸の戦いに500の伏兵を率いた。立花道雪の本隊1,000が敵軍に包囲された時、先に宗茂隊の300が鉄砲で側面から奇襲して、残る兵200は薦野増時が指揮して偽の旗を立てて大友氏の援軍が来ると見せかけ、遂に敵軍の包囲を解かせた。さらに宗茂は薦野増時・由布惟信・小野鎮幸ら1,000騎を率いて、岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将・笠興長隊300人を駆逐し150人を討ち取って、西の早良郡まで追撃し原田親秀の早良城を焼き落城させた。11月、立花山城で「御旗・御名字」の祝いを行い、名字を戸次から立花に改めた。12月28日の宗像領侵攻にも道雪に従って出陣した。 天正11年(1583年)年3月17日の吉原口防戦にて吉原貞安を討ち取って、4月23日宗像氏貞の居城許斐山(このみやま)城と杉連並の龍德城を落城や降伏させた。 天正12年(1584年)8月、立花道雪・高橋紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣。宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。この時、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せたが、まず謀叛の素振りをみせた櫻井中務・治部兄弟を粛清し、兵を三隊に分けて果敢に城から出て、夜襲や火計で敵本陣に同士討ちを起こさせてこれを撃破。更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃し、敵に立花道雪は不在だが立花山城の兵力はまだ十分と印象づけた。 立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年(1585年)に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花宗茂」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tachibana Muneshige 」があります。 スポンサード リンク
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