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立花家橘之助 : ミニ英和和英辞書
立花家橘之助[たちばなや きつのすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 
: [たちばな]
 【名詞】 1. kind of citrus fruit 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

立花家橘之助 : ウィキペディア日本語版
立花家橘之助[たちばなや きつのすけ]

立花家 橘之助(たちばなや きつのすけ、1866年7月27日 - 1935年6月29日)は、女流音曲師(女道楽)。本名:石田美代。
天才的な三味線の名手として知られる。おもに寄席で活躍。圧倒的な人気を誇る。落語家ではないのに、落語の寄席の主任(トリ)を常時とり続けた。
異名として「女大名」「女公方」「淀君」「女帝」。
2代目三遊亭圓橘の弟子。大師匠は三遊亭圓朝
父の名は石田良周(よしちか)で、田安家に仕える幕臣であったという。

== 年譜 ==

*竹本紋榮に義太夫、清元延榮の元で清元の三味線を始める。5歳の時、女義太夫として6代目桂文治の出演する下谷「吹抜亭」で面白半分で出演。
*1873年1874年、2代目三遊亭圓橘に入門。両国寄席立花家」に喜代八の三味線伴奏で初高座。
*大師匠の三遊亭圓朝にも可愛がられ、真打昇進を許される。1875年7月、浅草の「雷名亭」で8歳にして真打昇進。(他に類例はない)
*1882年から足掛け3年半に渡り、大阪京都名古屋へと男装で巡業。
*1887年頃から「三府浮世節」(浮世節)の家元の看板を掲げ、諸派音曲取り混ぜての三味線の名人と謳われた。
*人気を妬む何者かに水銀を飲まされ、声を潰した。しかし晩年まで最高の賛辞を得つづけた。
*6代目朝寝坊むらく初代全亭武生)と駆け落ちして結婚。
*1906年から1907年に掛けて、師・圓橘と夫・むらくを共に亡くすが、師の夫人と2人の遺児を共に引き取り、世の賞賛を得た。
*初代橘ノ圓と再婚。
*1924年に表舞台からは引退し、夫の橘ノ圓と共に名古屋市中区に移る。
*1935年6月10日京都市上京区に移り住む。そのわずか19日後、北野天満宮そばの紙屋川が氾濫し、自宅が流され、夫と共に水死。。
墓所は神楽坂の清隆寺。法名: 清心院妙橘日周大姉。
門下には、初代立花家花橘(女性)、7代目朝寝坊むらく(のちの3代目三遊亭圓馬)、橘家橘弥(のちの5代目橘家小圓太)、2代目立花家花橘三遊亭圓吉(キツネウマ)、3代目立花家千橘らがいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「立花家橘之助」の詳細全文を読む




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