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立花 寿賰(たちばな ひさとみ)は、江戸時代の武士。柳河藩の家老を務めた。立花政俊を祖とする重臣家の立花両家の一つ、立花内膳家(石高1000石)の6代目当主でもある。妻は立花鑑通の娘・松で、子女は立花種賰ほか4男2女(うち1女は養女)。諱(実名)は初め種輔(たねすけ)だったが、後に義弟で藩主の立花鑑寿から偏諱を賜り、寿徳(ひさとみ)、寿賰(読み同じ〔「三百藩家臣人名辞典」では「寿賰」を有職読みして「じゅしゅん」と呼んでいるが、「立花織衛家文書目録」では「ひさとみ」とルビが振られている。〕)に改名した。 「武の家」と言われた立花内膳家の当主だけに、家川念流剣術を皆伝し〔ちなみに、柳川藩主家から交代寄合山名家に養子入りした山名義徳も念流剣術奥義を柳川藩士に相伝している。「立花織衛家文書目録」参照。なお、資料番号はC-71-36-1とC-71-36-2〕、宝蔵院流槍術の目録を取得した他、越後流兵学に精通していた。また財政・経済通であったとされる。 == 経歴 == 宝暦12年(1762年)に柳川藩重臣の立花内膳家当主・立花種房(相模)の子として出生。寛政4年(1792年)に家老に就任。義兄弟の立花通栄らと豪傑組を組織して藩政改革を行う。しかし、寛政10年(1798年)に立花鑑寿に信任された小野勘解由により、通栄らは家老職を一時免職される(豪傑崩れ)が寿賰は処罰対象ではなかったとされる。その後は内証方上聞役や花畠御用掛となるが、その後辞職となる。 文政7年(1824年)に隠居し、文政8年(1825年)死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花寿とみ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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