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立花山の戦い(たちばなやまのたたかい)は、天正11年(1583年)に遠藤慶隆・胤基と佐藤秀方・森長可との間で行われた戦い。 == 概要 == 天正10年(1852年)の山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れた後、美濃国岐阜城主となった織田信孝は秀吉と対立し、北濃東濃の多くの諸将は秀吉に従ったが、郡上郡の遠藤慶隆と胤基は、信孝に与し続けた。 天正11年(1583年)1月、武儀郡の諸士は、須原(現美濃市)・洞戸(現関市)に陣を構え、郡上と岐阜の連絡を遮断した。これを知った遠藤方は300余騎(『篠脇城主東家譜記』では2,000人)で陣を攻め落とし、立花山(現美濃市)に兵を置いて固守した。1月8日、武儀郡上有知城主佐藤秀方は、秀吉の命を受けた可児郡兼山城主森長可と連合し、立花山を攻囲した。慶隆は信孝に救援を求める密使を送り、信孝は守備の功労を誉め援軍派遣を約束したが、援軍は容易に到着しなかった。 同年2月には、糧道を絶たれ馬具の熊皮まで焼いて食すようになり、木尾・三日市(ともに現郡上市美並町)の住人が酒樽に米を詰め酒と称して送り、山道から陣中に運び入れて一時の急を救ったものの、攻囲はますます厳しくなり、遠藤方は決死の突撃を覚悟した。同年4月、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅ぼされ、信孝が秀吉に降伏すると、佐藤秀方より軍使が来て信孝の敗北が知らされ、開城勧告がなされた〔。遠藤慶隆は石神兵庫・遠藤利右衛門を人質として送り、母野(現郡上市美並町)で両軍の和議が成って、遠藤氏は秀吉の配下に入った〔。 佐藤秀方は、この戦を機に秀吉の武将となり、武儀郡の大半を領有(石高2万5,000石といわれる)した。遠藤慶隆らは太閤検地の後、本領を没収され、慶隆は加茂郡小原7,500石、胤基は同郡犬地5,500石に移封された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花山の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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