|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 花 : [はな] 【名詞】 1. flower 2. petal
立花 忠茂(たちばな ただしげ)は、江戸時代前期の大名。筑後柳河藩の第2代藩主。立花直次の四男で、立花宗茂の養嗣子。初名は貞之で、諱は忠貞、忠之、忠茂。剃髪して好雪と号す。 == 生涯 == 慶長17年7月7日(1612年8月3日)、立花直次の四男として誕生。生まれたその日に伯父宗茂の養嗣子となった。 元和8年(1622年)2月27日、11歳の元服の時、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の殿上において加冠し、従五位下・左近将監に叙され、偏諱を授かって忠茂と改め、左文字の刀を賜った。 将軍の相伴衆として江戸に詰めていた養父に代わり、寛永6年(1629年)頃には事実上藩政を司るようになった。 寛永11年(1634年)、大御所秀忠の上洛に扈従。 寛永14年(1637年)4月3日、所領を相続。11月に島原の乱が勃発すると出陣。12月18日に上使板倉重昌の配下で原城攻めの寄せ手に加わり、19日払暁、鍋島勢が抜け駆けをして西の松山を奪取しようと突撃をかけたので、これに呼応して忠茂勢も西の丸の堀際まで深く攻め入ったが、板倉の再三の引き揚げ命令を受けて退いた。翌寛永15年1月1日(1638年2月14日)の総攻撃の際には、浜側の寄せ手に加わっていて戦闘には参加しなかった。2月11日、一揆勢の夜襲があったがこれを撃退。2月27日、最後の総攻撃の前日にまた鍋島勢が抜け駆けをして戦闘を開始したので、忠茂もこれに加わり、三の丸を奪取して本丸に火をかけた。28日の総攻撃では忠茂自ら詰の丸(本丸)に突入して落城させた。 寛永16年(1639年)4月3日、宗茂の致仕により正式に家督を継いで柳河藩の第2代藩主となり、藩政の安定に努めた。寛永17年(1640年)7月18日、将軍家光より延寿国時の刀を賜る。寛永18年(1641年)正月、従四位下に叙される。寛永19年(1642年)5月、柳川城の改修のために(特別に)暇をもらう。 正保3年(1646年)に永興寺(現在の福岡県みやま市)に東照宮を勧請した。 将軍家綱の代になり、明暦3年(1657年)12月に侍従に叙され、万治3年(1657年)12月に飛騨守に改める。この頃、義弟〔忠茂の継室が伊達忠宗の娘。〕にあたる仙台藩第3代藩主・伊達綱宗が引き起こした伊達騒動では、親類として鎮静化に大きく関与した。 寛文4年(1664年)閏5月7日に致仕し、四男・鑑虎に家督を譲って隠居。 延宝3年9月19日(1675年11月6日)に死去。享年64。江戸小石川の徳雲寺に葬られた。法号は別峯院殿忠巌好雪大居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花忠茂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|