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立花 政俊(たちばな まさとし)は、江戸時代初期の武士。筑後国柳河藩士。立花直次の子。柳河藩重臣家の立花両家の一つで「武の家」と呼ばれた立花内膳家の祖。通称は内膳、号は宗繁。 諸系図で諱を政俊あるは種俊とし、息子と混同するものもある〔「三百藩家臣人名事典7」では政俊と息子で2代目の種俊の混同が見られる。「立花家記・おおむたの宝もの100選」で内膳家は立花政俊が創始、1千石、二代目は種俊が継ぐとあり、 「日本歴史地名大系」では宗繁を初代、種俊を2代目と区別されている。しかしながら、『寛政重修諸家譜』では立花直次の三男を種俊と記載し、娘を一人の載せている。〕。 == 生涯 == 慶長13年(1608年)、立花直次の子として誕生。兄弟に柳河藩第2代藩主・立花忠茂などがいる。 寛永14年(1637年)の島原の乱の際において、親類の三池藩主で幼少であった立花種長に代わって三池藩兵95名を指揮。この功により、寛永15年(1638年)に丁銀690目及び上内村及び下内村に2000石を拝領されるが、半分の上内村(現在の大牟田市上内)1000石のみを受けており、これが内膳家代々の所領となった。一方で所領については、「寛永十五年寅五月九日 有馬御陣二而御公儀~之御扶持方銀割符帳」(1638年)に「高千石・丁銀六百九十目・内膳様」とあり、万治3年(1660年)とされる「忠茂公御代之分限帳」に「高千石 内800石 上内村 内200石 坂井村 立花内膳様」とある。また、戦後に『島原陣記』を記した。 寛文4年(1664年)閏5月17日に死去。戒名は台照院殿渓雄宗繁日源大居士。墓所は柳川の台照院。 なお、文久3年(1863年)に内膳家所領内の上内八幡宮境内に政俊没後200年を記念して宗繁神社が建立される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花政俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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