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立花 義家(たちばな よしいえ、1958年10月27日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。 2013年より千葉ロッテマリーンズの一軍打撃コーチに就任〔立花義家氏 一軍打撃コーチ就任のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月30日〕。 == 来歴・人物 == 「義家」という名前は、源義家にあやかって祖父が命名した。 柳川商業高等学校では2年生の時、春の選抜に中堅手として出場。1回戦で堀越高に敗退〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。同年夏も県予選決勝に進出するが、小倉南高に敗れる。1年上のチームメートに加倉一馬がいた。翌夏の甲子園には同期のエース久保康生を擁し、一塁手、一番打者として出場。三重高を降し3回戦に進出するが、PL学園の中村誠治投手(早大-日産自動車)に抑えられ0-1で惜敗〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。 クラウンライターライオンズに地元・福岡の星として入団、張本勲二世と期待された。プロ入り後は外野手に転向。 2年目の、監督の根本陸夫に抜擢されてレギュラーを任され、「19歳の三番打者」として注目を集めた。クラウンライターとして最後の試合であった平和台野球場でのクラウン+巨人連合軍対シンシナティ・レッズの試合では、四番・王貞治の次の五番打者を任された。翌年のチーム所沢移転後も主力選手として活躍。 にはチーム最高打率.301を記録、18本塁打を放ち「恐怖の七番打者」と評された(当時田淵幸一、土井正博、山崎裕之、大田卓司、スティーブ・オンティベロスら強打者が好調で打順が上がらなかったため)。から西武の2年連続日本一に貢献、の日本シリーズでは全7戦に先発出場し、27打数6安打2打点を記録する。しかしその後はやや伸び悩み、には田尾安志の移籍入団、金森栄治の台頭もあって外野の定位置を失う。代打での出番が多くなったが、代打に回ってからも勝負強い打撃を披露、チームの黄金時代の一翼を担った。 1991年オフ阪神タイガースに金銭トレードされたが1年限りで退団し、は台湾プロ野球の俊国ベアーズでプレーした(当時の同僚に野中徹博がいた)。引退後はサラリーマンを経て、福岡ダイエーホークス二軍打撃コーチ( - )、オリックス・ブルーウェーブ( - )、西武ライオンズ( - )の一軍打撃コーチを歴任した。 に福岡ソフトバンクホークス編成管理統括付、には現場復帰し一軍打撃コーチに就任したが、は総得点がリーグ5位になるなど打撃陣の成績が低迷し解任された。 からは西武時代の同僚・伊東勤が新監督に就任した千葉ロッテマリーンズの一軍打撃コーチを務める。 西武ライオンズ球場公式戦初本塁打を放っている(これがプロ入り初本塁打であった)。また、1980年とにそれぞれ月間2満塁本塁打を記録している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花義家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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