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立花 鑑載(たちばな あきとし)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。立花氏の第7代当主。筑前立花山城主。 立花氏は大友貞載の子孫の一族であり、大友氏の庶流である。鑑載は、立花宗家の当主立花鑑光(あきみつ)の子、実は日田親賢(親堅)の次男で、養子となったとされる。大友親明の孫。 == 略歴 == 立花鑑光・鑑載〔表記は鑑俊とも。〕の両名は大友義鑑から偏諱(「鑑」の字)を授与されており、この代からの家臣とみられる。 天文19年(1550年)の二階崩れの変の後、子の大友義鎮(宗麟)の代になると永禄年間(1558年~1570年)に鑑光(新五郎)が誅殺され、これによって後を継いで立花山城を領することとなった。 しかし、その恨みもあってか、永禄8年(1565年)、鑑載も大友宗麟に対し謀叛を起こしたが、吉弘鑑理に攻められ逃亡。後に宗麟から許され、奴留湯氏と立花山の東西両城を分け与えられている。許された理由は諸説あって定かではない。なお『九州諸家盛衰記』ではこのときに自害したとする異説を載せている。 永禄11年(1568年)に毛利元就の調略を受け、毛利勢の侵攻に呼応して高橋鑑種らと共に再び叛旗を翻した。この際に与力の薦野宗鎮、米多比直知 (ねたび なおとも、大学助)を殺して、(立花山城の西の丸である)白嶽の奴留湯融泉(ぬるゆ ゆうせん)を攻撃したが、取り逃がした。報告を受けた宗麟は激怒し、戸次鑑連、吉弘鎮信を攻撃に差し向け、城を攻囲させた。鑑載は安倍民部らと防戦したが敗れた。落城して自決したとも、竃門(かまど )勘解由允に斬られて首だけ豊後に送られたとも、投降したが二度の謀叛を許されずに処刑されたとも云う。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「立花鑑載」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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