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龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺との関係が深く、山内塔頭と同様の扱いを受けている〔川上貢「妙心寺の寺域景観と建築」『妙心寺』(日本古寺美術全集24巻、集英社、1982)、p.98〕〔2009年に東京国立博物館等で開催された特別展「妙心寺」の図録には塔頭として48か院を挙げ、その中に龍安寺も含まれている。妙心寺の携帯サイトにある「塔頭寺院案内」では龍安寺を塔頭としている。(参照:)〕。山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 == 歴史 == 「石庭」として知られる枯山水の方丈庭園で有名な龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地に山荘を建立した。この山荘を細川勝元が譲り受け寺地とし、初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。 龍安寺は、開基細川勝元らと守護大名山名持豊(宗全)らが争った応仁の乱(1467-1477年)によって焼失するが、勝元の子の細川政元と4世住持・特芳禅傑によって、明応8年(1499年)に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、織田信長、豊臣秀吉らから寺領を付与されている。 絵入りの名所案内書(現代の旅行ガイドブックに相当)である『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)を見ると、当時、龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名であった。 寛政9年(1797年)に京都奉行所へ提出された古地図には23か寺の塔頭があったが、寛政9年(1797年)の火災で方丈、仏殿など主要伽藍が焼失したため、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)とし、現在にいたっている。 その後、明治初期の廃仏毀釈によって衰退するが、イギリスのエリザベス女王が1975年に日本を公式訪問した際、龍安寺の拝観を希望し、石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道された。そのため、昨今では世界各地での日本のZEN(禅)ブームと相俟って、世界的にも知られるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「龍安寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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