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李賢(り けん、永徽5年(654年) - 文明元年〔『旧唐書』巻86、章懐太子賢伝。〕(684年))は、中国・唐の皇太子。高宗の六男で、母は武則天。字は明允。諡号は章懐太子(しょうかいたいし)。中宗、睿宗の同母兄である。 == 概要 == 5歳で王に封じられ、6歳で雍州牧・岐州刺史を兼ねる。11歳で沛王・揚州都督・左武衛大将軍に任じられる。上元2年(675年)、同母兄・李弘の死によって皇太子となる。幼い頃より学問に通じ、儀鳳元年(676年)には学者たちとともに『後漢書』の注釈を完成させた。 ところが、正諫大夫の明崇儼が武后に対して弟の栄王顕(のちの中宗)を推挙したことから、武后は賢に対して皇太子を弟に譲るように迫った。それから間もない調露元年(679年)に、明崇儼が強盗に襲われて死亡するという事件が起こった。武后は彼を恨む賢の仕業であると疑い、賢の屋敷を捜索したところ、屋敷内から甲数百が発見された。武后はこれを謀反の準備であるとして、高宗に迫って皇太子を廃して庶人とした。更に永淳2年(683年)に賢は巴州に流された。 翌文明元年(684年)に実権を掌握した武后は、左金吾将軍丘神勣を巴州に派遣して賢を幽閉し、迫って自殺させた。ところが、丘神勣が帰還すると、武后はこれを罪に陥れて疊州刺史とし、改めて賢を雍王に封じた。 次いで睿宗が復位すると、皇太子の地位に復して「章懐」の諡号を贈り、唯一生き残っていた息子である三男・守礼を汾王に封じた(長男光順は先に誅殺され、次男守義も病死していた)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李賢 (唐)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Li Xian (prince) 」があります。 スポンサード リンク
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