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章献明粛皇后(しょうけんめいしゅくこうごう、968年2月14日〔開宝元年正月8日〕 - 1033年)は、北宋の第3代皇帝真宗の皇后。仁宗の嫡母。姓は劉氏。諱は不詳〔一説に娥(が)とされるが、信頼できる史料上には見られない。〕。 == 経歴 == 益州の人。出身身分や生い立ちに関する記録は残っていない。蜀の職人の龔美と結婚し、一緒に京師に入った。容姿が美しく、聡明さを備えていた。襄王趙元侃(のちの真宗)が劉氏に一目惚れし、密かに側室として迎えたが、趙元侃の乳母〔劉氏。のちの秦国延寿保聖夫人。〕が密告して父帝の怒りを買い、劉氏は追い出された。 真宗が即位すると再び迎えられ、美人となった。龔美は劉美と改姓され、死去した指揮使劉通の子、劉氏の兄を自称した。侍女の李氏(のちの李宸妃)が趙禎(のちの仁宗)を産むと、真宗の許可で劉氏はこの子を奪って自分の子ということにした。他の后妃が産んだ5人の男子はみな早世していたため、この太子を生んだ「功績」により、大中祥符5年12月(西暦で1013年)に皇后に立てられた。 真宗が崩ずると、遺詔により劉氏が皇太后となって政治を掌握し、11年にわたって垂簾聴政した。天聖2年(1024年)、「応元崇徳仁寿慈聖」の徽号が贈られた。 明道2年(1033年)に崩じ、「荘献明粛」と諡された。慶暦4年(1044年)11月、夫の諡を重ねて「章献明粛」と改諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「章献明粛皇后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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