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章 要児(しょう ようじ、506年 - 570年)は、南朝陳の武帝陳霸先の皇后。本姓は鈕氏。本貫は呉興郡烏程県。 == 経歴 == 梁の散騎侍郎の章景明と蘇氏(安吉県君)のあいだの娘として生まれた。成長すると、その容姿とふるまいは美しく、手の爪の長さを5寸に伸ばした。読み書き計算を得意とし、『詩経』と『楚辞』を暗誦することができた。陳霸先ははじめ呉興郡の銭仲方の娘を先妻に迎えていたが、早くに死去したため、要児を後妻として迎えた。 545年(大同11年)、陳霸先が交州に南征すると、要児は陳昌や陳蒨とともに広州から海道を通って長城県に帰った。侯景の乱が起こり、551年(大宝2年)に陳霸先が豫章におもむくと、要児は侯景の軍に捕らえられた。翌年に侯景の乱が平定されると、要児は解放されて長城県公夫人となった。557年(太平2年)1月、義興国夫人となった。同年(永定元年)10月、陳が建国されると、皇后に立てられた。 559年(永定3年)6月、陳霸先が死去すると、要児は中書舎人の蔡景歴と相談して、夫の死を隠して喪を発さず、臨川王陳蒨を南皖から召し出した。文帝(陳蒨)が即位すると、7月に要児は皇太后となり、慈訓宮に起居した。566年(天康元年)4月、廃帝(陳伯宗)が即位すると、要児は太皇太后となった。568年(光大2年)11月、要児は廃帝を臨海王に落とし、安成王陳頊に即位するよう令を下した。569年(太建元年)1月、宣帝(陳頊)が即位すると、要児はまた皇太后となった。570年(太建2年)3月、紫極殿で死去した。享年は65。4月、万安陵に陪葬された。諡は宣太后といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「章要児」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Empress Zhang Yao'er 」があります。 スポンサード リンク
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