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竹俣 義秀(たけまた よしひで)は、江戸時代初期から中期の出羽国米沢藩上杉氏家臣。苗字は初め保科氏であったが、後に実家の姓である竹俣氏に復す。後に侍組分領家のひとつである竹俣氏分家の竹俣西家の祖。家格は侍組分領家。幼君上杉綱憲を補佐し、当時、「諸家七賢人の随一」と呼ばれた。 == 経歴 == 竹俣房綱の次男として生まれ、正保2年11月(1645年)に米沢藩士保科主馬貞通の養子となって家督相続。寛文4年(1664年)に藩主上杉綱勝が突如死去し、これにともなう米沢藩削減にあたり、同姓である会津藩藩主保科正之を頼り、米沢藩存続に尽力。吉良義央の子、綱憲が米沢藩を相続すると、同年6月にその傳役となり、同年8月に米沢藩の恩人である保科正之との同姓を憚り、実家の姓に改姓する。寛文8年(1668年)には江戸家老になり、中条知資らとともに上杉綱憲を補佐するが、延宝2年(1674年)に江戸で死去した。 なお、長男の義澄は竹俣本家を相続しており、血統上は竹俣当綱の先祖にあたる。また、家統も明治期まで存続し、竹俣西家の当主は武鑑で『竹俣勘解由』としてしばしば登場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹俣義秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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