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竹入 義勝(たけいり よしかつ、1926年〈大正15年〉1月10日 - )は、日本の政治家。 東京都文京区議会議員(1期)、東京都議会議員(1期)、衆議院議員(8期)、公明党委員長(第3代)などを歴任した。位階勲章は勲一等旭日大綬章。 == 経歴 == *1926年1月10日 - 長野県上伊那郡辰野町に生まれ、北佐久郡軽井沢町で育つ〔『長野県人名鑑』信濃毎日新聞社、1974年〕〔『新新人国記2 長野県』朝日新聞社、2013年〕。 *戦後、旧制伊那中学を経て、国鉄(現:JR東日本)勤務を経て、創価学会に入会。 *1959年4月 - 第4回統一地方選挙の一つとして実施された東京都文京区議会選挙に無所属(創価学会推薦)で立候補し、当選する。 *1961年11月 - 公明政治連盟の結成に参加。この頃、自由民主党本部に出入りし、政治大学校(現:自由民主党中央政治大学院)の講義を通じて田中角栄らと個人的な関係を築く。 *1963年4月 - 第5回東京都議会議員選挙に北区選挙区から公明政治連盟の公認を受けて立候補し、当選する。 *1964年11月17日 - 公明党が結成され、公明党副書記長に就任する。 *1967年 *1月29日 - 第31回衆議院議員総選挙に旧東京10区(後の東京17区)から公明党公認で立候補し、初当選する(以降連続8回)。公明党は25議席を獲得する躍進。 *2月 - 第2代公明党中央執行委員長、辻武寿の退任にともない、その後任に就く。過去2代の委員長は参議院議員が就任していたが、衆議院議員である竹入が委員長に就任したことは、公明党が衆議院を重視する転換を示すことになった。 *1969年12月 - 政治評論家の藤原弘達による公明党と、創価学会の政教分離問題が表面化した際、自民党幹事長になっていた角栄に事態の沈静化を依頼。党書記長矢野絢也と共に角栄と藤原の会談を見守った。 *1971年6月27日 - 第9回参議院議員通常選挙において、公明党は得票を減らし敗北する。 *1972年 *当時の社会党中央執行委員長だった成田知巳、元社会党委員長佐々木更三らと中国を訪問し、日中国交正常化交渉の極秘折衝を行う。同年9月、首相となった角栄が訪中するが、その際の日中共同声明実現に貢献する。 *さらに北朝鮮も訪問、首相から主席になったばかりの金日成と会談する。 *12月10日 - 第33回衆議院議員総選挙において、公明党は29議席と議席を大きく減らし惨敗。 *1975年 - 成田と初めて社公党首会談を行う。反自民で意気投合し、選挙協力にまで発展する。 *1979年 *民社党委員長の佐々木良作と公民連合政権構想に合意する。 *10月7日 - 第35回衆議院議員総選挙では、社公・公民における選挙協力が成功。自民党を大敗に追い込んだ。 *1980年 * 1月 - 成田の後任として社会党中央執行委員長に就任した飛鳥田一雄との間で連合政権構想に合意。 *日本共産党とは絶縁(革新ブロックの解消)。公明党はこれ以降、一貫して共産党排除路線を取り続け、創共協定は完全に死文化。 *6月22日 - 衆参同日選挙において、第36回衆議院議員総選挙では50議席割れ、第12回参議院議員通常選挙では25議席割れの惨敗に終わった。 *1984年 - 自民党総裁選挙において、二階堂擁立構想が持ち上がり、佐々木良作と共に擁立抗争に巻き込まれる。 *1986年12月 - 各党が世代交代する中、在職20年目を前に委員長を退任。公明党最高顧問に就任する。 *1990年2月 - 第39回衆議院議員総選挙で不出馬。党内役職定年(在職中に66歳の誕生日を迎え得る場合はその直前の選挙をもって引退)を確立させ、政界から引退。 *1997年 - 勲一等旭日大綬章を受章する。 *1998年 - 8月から9月にかけて朝日新聞に掲載されたインタビュー記事がきっかけで反学会に転じ、公明党最高顧問を解任の上、除名される(詳細は後述)。創価学会も竹入を会員除名に付す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹入義勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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