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竹内 久一(たけうち きゅういち/ひさかず、安政4年7月9日(1857年8月28日) - 大正5年(1916年)9月24日)は明治時代の彫刻家。幼名は兼五郎。号は久遠。 ==生涯== 江戸・浅草田町にある田長(田蝶)という提灯屋の老舗に生まれる。画才のあった父・竹内善次郎(竹内田蝶)の方針で、13歳の時に根付師・堀内龍仙に弟子入りさせられ、龍仙死後は川本洲楽という彫刻家のもとで象牙彫刻の修業をする。22歳の時に父が没し、以前から始めていた骨董屋で生計を立てる。明治13年(1880年)に翌年に予定されている内国勧業博覧会の準備として観古美術会が開かれ、そこに出品された奈良・興福寺の古仏像を見て大いに感動し、木彫りの可能性に目覚めた。明治14年(1881年)の博覧会に自身が出品した象牙彫刻で褒状をもらい、翌15年(1882年)に奈良に遊学、明治18年(1885年)まで正倉院御物をはじめ諸方の寺社にある古彫刻を模刻し研究を重ねる。この間、同じく奈良を訪問したフェノロサ・狩野友信・加納鉄哉・岡倉覚三(天心)と知り合う。 岡倉に協力して明治22年(1889年)に東京美術学校が開校すると、久一は彫刻科の教師となり3年後に教授に任命される。そこでの仕事はおもに古彫刻の模刻と修復であった。1893年のシカゴ万国博覧会に『伎芸天』を出品して好評を得る。明治39年(1906年)4月4日には帝室技芸員に選ばれ〔『官報』第6826号、明治39年4月5日。〕、文展開設後は審査員を歴任。門下として白井雨山・沼田一雅などがいる。 職人というよりは「数寄者」として知られ、山東京伝の『骨董集』の影響から古物の研究を始め、松浦武四郎とは骨董趣味を共有していた。幸堂得知と「地口」の研究会を開いたり、淡島椿岳や大槻如電などと交流することで元禄文化についての知識を深める。「玩具博士」と呼ばれた清水晴風とは竹馬の友であり「集古会」などで活動をともにし、そこで西澤仙湖・林若樹とも知り合う。一方、岡倉覚三・田中智学による知的影響は、制作するモチーフに大きく関わっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹内久一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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