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竹崎 季長(たけさき/たけざき すえなが)は、鎌倉時代中期の武士。鎌倉幕府御家人。元寇における自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。 == 生涯 == 肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)の出身。菊池氏の一族〔以前は阿蘇神社大宮司・阿蘇氏の一族とみなされていたが、竹崎氏が藤原姓を名乗る点から宇治姓の阿蘇氏庶流とするには矛盾がある。(参考:松本雅明 『熊本の美術工芸』 熊本日日新聞社、1978年、30-31P」「松本寿三郎、板楠和子、工藤敬一、猪飼隆明 『熊本県の歴史』 山川出版社、1999年、98P」〕 であるが、同族内の所領争いに敗れて没落した。このため季長が持っていた所領は相当少なかったか、もしくは所領を失った「無足の御家人」であったと言われている。 文永11年(1274年)、大元大モンゴル国の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、日本軍の総大将・少弐景資が陣を敷く息の浜に参陣した。景資は息の浜に陣を敷き、元軍が赤坂から博多に押し寄せてくれば、一斉に元軍に騎射を射かける計画であった。しかし、季長は景資に元軍に対して、先駆けを行うことを申し出て、景資もそれを許可した。季長は5名で元軍の方に向かった。途中の赤坂では既に肥後国御家人・菊池武房率いる武士団が元軍を破り(赤坂の戦い)、多くの元兵の首を打ち取っていた。季長は武房ら武士団が帰陣するところに遭遇する。季長は赤坂の戦いで敗走した元軍を追って、鳥飼潟まで進出した。麁原山に陣を敷く元軍も鳥飼潟に進出したため、季長は先駆けを行う。しかし、季長以下三騎が負傷し、危機的な状況に陥ったが、後続から肥前国御家人・白石通泰や同国御家人・福田兼重ら日本軍が到着して、元軍を破った(鳥飼潟の戦い)。破れた元軍は麁原山や百道原へと敗走した。戦闘は日が暮れたのを機に終結し、後日の戦闘続行を困難と判断した元軍はその夜に博多湾から撤退し、文永の役は終結する。 季長の武功は負傷したのみであり、戦功とは認められなかったかあるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長は「先駆の功を認めてほしい」と、建治元年(1275年)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴する。同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷(現熊本県宇城市海東地区)の地頭に任じられた。泰盛との対面がかなったのは、季長の烏帽子親である三井季成と幕府実力者との繋がりによるものと見られる。 弘安4年(1281年)、第二次侵攻である弘安の役では、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において、志賀島の戦いや御厨海上合戦で敵の軍船に斬り込み、元兵の首を取る等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。戦後の永仁元年(1293年)には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、甲佐大明神へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった泰盛や景資らは、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅びており、恩義のある彼らへの鎮魂の意味があると考えられている。 永仁元年(1293年)、菩提寺・塔福寺を建立して出家し、法喜と号する。同年、所領の郷社に対して祭田・修理田・出挙などに関する7か条の置文を定め、正和3年(1314年)には更に18か条の置文を改めて制定した。元亨4年(1324年)3月4日、海東神社に対して修理費用として銭162貫文、米67石、田1町を寄進した記録が残っているが、以降の消息は不明〔田中健夫、石井正敏編『対外関係史事典』(吉川弘文館、2009年)〕。 熊本県宇城市小川町東海東の塔福寺に葬られた。また、同市小川町北海東にも季長のものとされる墓があり、平原公園として整備されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹崎季長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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