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竹添井々 : ミニ英和和英辞書
竹添井々[たけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たけ]
 【名詞】 1. bamboo 2. middle (of a three-tier ranking system) 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [くりかえし]
 (n) repetition of kanji (sometimes voiced)

竹添井々 ( リダイレクト:竹添進一郎 ) : ウィキペディア日本語版
竹添進一郎[くりかえし]

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)〔『異風者伝』63-68頁〕は、日本の外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した〔『熊本の人物』198頁〕。
甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者〔『熊本県近代文化功労者』189-196頁〕。
== 来歴 ==
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した〔。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた〔。
1855年安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる〔。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る〔。
1871年明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する〔。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した〔。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した〔『熊本県大百科事典』528頁〕。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた〔。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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