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竹田 利秋(たけだ としあき、1941年1月5日 - )は、和歌山県出身の学生野球指導者。和歌山県立和歌山工業高等学校→國學院大學卒業。東北高等学校、仙台育英学園高等学校野球部監督、國學院大學硬式野球部監督を経て現在は國學院大學硬式野球部総監督。 == 来歴 == 和歌山工高3年春に三塁手として甲子園出場。大学卒業後銀行員を勤めていたが当時東北高校野球部を指導していた同じく國學院大學野球部OBの松尾勝栄監督の後任者として招聘され東北高野球部コーチに就任。1968年、監督に就任し同年7年ぶりに夏の甲子園出場。これを最後に帰郷しようと考えるも、抽選会で自校を含む東北・北海道勢のチームとの対戦が決まった西日本のチームが戦わずして勝ったといわんばかりの拍手歓声を挙げて喜ぶのに対し東北・北海道勢の学校の生徒は下をうつむいている様子を見てこの状況をなんとか変えたいと思うようになり、以後、東北高を甲子園で勝てる強豪校へと育て上げる。 1985年夏の甲子園で佐々木主浩投手を擁しベスト8進出後、宮城に来て20年が経過したのを機に今度こそ帰郷しようとした矢先、大阪府立市岡高等学校野球部出身の山本壮一郎・宮城県知事が「竹田を宮城県から出すな。」と乗り出し、県内最大のライバル校・仙台育英学園高へ異動となる。異動の背景には、東北高校野球部OBによる「竹田では勝てない」という声や、学校経営者との意見の食い違い、東北高校の教職員組合からの突き上げがあったとされる(東北高校は教職員の組合活動が盛んである)。仙台育英学園高では、1989年夏の甲子園大会で大越基投手を擁し準優勝するなど、こちらも甲子園で勝てる強豪校へと育て上げる。東北へ優勝旗を持って帰る事(白河の関越え)が夢だった。 1995年夏の甲子園を最後に仙台育英学園高の監督を退き(後任は東北高校時代竹田自身の教え子である佐々木順一朗)、翌春からは東都大学リーグ二部の母校・國學院大の監督に就任。教え子をプロへ何人か輩出するも一部昇格にはなかなか手が届かなかったが、2006年春に入れ替え戦を制して一部昇格を果たした。 :1963年 東北高校硬式野球部監督(社会科教諭)就任 :1985年8月 東北高退職 :1985年10月 仙台育英高校硬式野球部監督(社会科教諭)就任 :1995年8月 仙台育英高監督退任 :1996年2月 仙台育英高教頭職退任 :1996年3月 國學院大學硬式野球部監督就任 :2010年8月 國學院大退職、國學院大學硬式野球部総監督に 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「竹田利秋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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