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笈川 武夫(おいかわ たけお、1905年 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名は春野 武雄(はるの たけお)。別名は及川 武夫(読み同じ)。日本初のテレビ時代劇『半七捕物帳』の主役として知られる。 == 来歴・人物 == 1925年から1927年まで存在していた、作家直木三十五が設立しマキノ・プロダクションが提供した聯合映画芸術家協会を経て1929年4月、新築地劇場を脱退した丸山定夫、薄田研二、山本安英によって創立された新築地劇団に入る。旗揚げ公演に先立って、新宿・武蔵野館から映画のアトラクションに少人数の芝居を上演してほしいと申し込まれ、準備公演としてニコライ・エヴレイノフ作『心の劇場』を上演し、笈川も助演。さらに同年5月には片岡鉄兵作『生ける人形』にも出演して、後に正式な劇団員となった。 1931年4月、新築地劇団の関西公演が行われ、フセヴォロド・プドフキン作『アジアの嵐』が上演された後、戦旗座主催の講習会が開かれ、講師として出席。同年10月、東京左翼劇場が結成した日本プロレタリア劇場同盟のプロット第4回全国大会が開催され、中央執行委員に選出された。さらに同年11月、日本共産青年同盟に加入し、劇団内にフラクションを形成した。 1932年1月、新築地劇団の関西新春公演が関西のプロット系の劇団の援助によって行われ、ウラジミル・キルション作『風の街』が上演され、笈川も出演。同年3月、プロットの拡大中央委員会が開かれたが、臨席していた官憲により突然中止させられた。この後、次第にプロット指導部に対する弾圧が強まり、笈川も検束された。 その後は、寺田靖雄と共に関西新派に移り、1934年3月、プロット大阪支部が解体し、同年4月、劇団自由舞台が旧プロット員と松竹の演劇会社によって結成されたのを機会にこれに参加したが、一度も舞台に立つことは無かった。1937年、寺田と共に新生劇場を創設した。1940年、国策に協力するために、関西演劇文化協会が設立されたが、笈川はそのどちらにも関係した。 戦後は1950年代から東宝の専属俳優として活動し、多くの作品に出演。テレビドラマの出演もあり、テレビ放送開始間もない頃に放送された、テレビ初の時代劇として知られる『半七捕物帳』(1953年7月1日 - 1955年5月21日放送、NHK)で主演を務るほか、多くの作品に脇役や主役として活躍した。 しかし、1959年12月8日に公開された東宝製作・配給の映画『槍一筋日本晴れ』、1959年9月5日から1960年1月9日まで放送されたKRテレビ(現在のTBSテレビ)系列の『朝焼け富士』以降の出演記録が見当たらない。以降の消息も明らかになっていない。没年不詳 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「笈川武夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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