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笠間人車軌道(かさまじんしゃきどう)は、茨城県西茨城郡笠間町(現・笠間市)にかつて存在した人車軌道、およびその運営会社である。笠間稲荷神社への参拝客輸送を主目的に、1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)まで営業した。 後に笠間稲荷軌道、笠間稲荷運輸と改称した。 == 概要 == 1889年(明治22年)に開通した水戸鉄道(現・水戸線)の笠間駅は、笠間の市街から1km以上離れた所に設置されていた。この理由については、鉄道によって宿場が寂れるとして反対運動が起きた(鉄道忌避伝説)という説もある〔笠間市史編さん委員会『笠間市史 下巻』 130-131頁〕が、笠間市街の東に佐白山が位置することから、市街に接近させようとすれば路線が大きな迂回を余儀なくされてしまうため、これを避けたのが実際だろうと推測されている〔中川浩一『茨城の民営鉄道史 中』 192頁〕。一方、参拝客で賑わう観光地であった〔鉄道省が1930年(昭和5年)に刊行した『日本案内記』によれば、毎年100万人以上の参拝客を数えたという〕笠間稲荷神社は笠間市街にあったことから、神社と笠間駅とを結ぶ人車軌道が計画されることになる。こうして、1915年(大正4年)11月22日に笠間人車軌道が開業した。社長は飯野繁次郎〔『笠間市史 下巻』 293頁〕、資本金は2万円であった。 開業当初の営業成績は好調であったが、1925年(大正14年)ごろになると乗合バスとの競合にさらされるようになり、また「言語ニ絶スル時代錯誤ニシテ実ニ笠間町体面上一日モ存置スルヲ許サズ之レ人車軌道ノ撤廃ヲ要求スル所以」などとして撤廃陳情も起こるようになった〔『かつしかブックレット15 帝釈人車鉄道 -全国人車データマップ-』 30頁〕。1925年に当線を実地調査した鉄道省の担当者は、会社経営陣が収益のみを重視し、設備荒廃がなおざりにされているという主旨の報告を残しており、また当時の株式配当は3割という異常な過大配当であったともいう〔湯口徹『内燃動車発達史 上巻』 76頁〕。 これらの事情と、人身事故〔狭い街路の軌道上を人力で後押しされる人車では、前方不注意による事故が起こりがちであった。〕を減らすため、後押しである人車から前面で運転する内燃動力車両に切り換えるようにと指導があった〔こともあって、1925年にオットー・ライメルス商会からガソリン機関車を購入し〔『茨城の民営鉄道史 中』 198頁〕、動力切り換えを行なった。同時に客車4両も増備している。これに伴い、社名も笠間稲荷軌道へと変更された。ただし、この機関車に関しては、使用実績が不良であったためか、2年後の1927年(昭和2年)には2両のガソリン動車に置き換えられている〔。 しかし、これらの輸送能力向上策も実らず、1926年(大正15年)の上半期を最後に黒字が出なくなる〔『笠間市史 下巻』 295頁〕など経営は悪化していき、1930年(昭和5年)11月17日をもって廃止された。 経営悪化の理由としては、元々1.5kmに満たない超短距離路線で経営基盤が弱かったこともさることながら、 *機関車・気動車購入時の借入金の利子が経営を圧迫した *軌道の終点が笠間稲荷神社の鳥居前から離れており、参拝客は下車してなお200mほど歩く必要があった *道路の維持管理費を負担する必要があり、乗合バスより経費の面で不利だった *起終点でガソリン動車を転回させる必要があり、多客時に頻発運転ができなかった といった点があげられている〔『茨城の民営鉄道史 中』 199頁〕。 なお、1929年(昭和4年)に笠間稲荷運輸へ改称されているが、軌道業以外の兼業は行なっていない〔。 2014年(平成26年)6月に、道の市実行委員会が笠間人車軌道の車両を復元した〔今井俊太郎「大正の人力鉄道 再現 レールを抜き足し1.4キロ」茨城新聞2015年11月23日付朝刊、第1社会A版、23ページ〕。普段は、笠間芸術の森公園内にある笠間工芸の丘という施設に展示されている〔。毎年6月1週目の土曜日、日曜日に開催される「道の市」(笠間市笠間弁天町内の駅前通りで開催されているイベント)にて、約20メートルのレール上で運行されていた。1回100円で乗車が可能であった。2015年(平成27年)11月22日には開業から100年の記念と同実行委員会の活動に区切りを付けるため、営業当時と同じ区間の全走破を行う催しが開かれた〔。メンバー15人がレールを敷きながら人車を押し、人車が通過した後のレールを外して前に取り付けるという作業を繰り返しながら笠間駅 - 笠間稲荷神社間を1時間20分かけて走破した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「笠間人車軌道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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