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第12王朝 : ミニ英和和英辞書
第12王朝[だい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王朝 : [おうちょう]
 【名詞】 1. dynasty 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

第12王朝 ( リダイレクト:エジプト第12王朝 ) : ウィキペディア日本語版
エジプト第12王朝[えじぷとだい12おうちょう]

エジプト第12王朝紀元前1991年頃 - 紀元前1782年頃)は、エジプト中王国時代の古代エジプト王朝。第1中間期を終わらせた第11王朝に継続する政権であった。中王国時代には文章語としての中期エジプト語が確立され、この王朝に纏わる数多くの文学作品が今日にまで伝えられている。第12王朝時代は中王国時代の大部分を占め、崩壊を以てエジプト第2中間期の始まりとされる場合が多い〔どこまでを中王国として扱うかについては別の見解もある。〕。
== 歴史 ==

=== 成立 ===
第12王朝の初代王はである。第11王朝最後の王の治世第2年に王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官の名前が宰相のアメンエムハトであることから、このアメンエムハトとアメンエムハト1世が同一人物であり、クーデターによって王位を簒奪したのであろうと言われている。『ネフェルティの予言』と呼ばれる文書によればアメンエムハト1世は上エジプト第1県の出身であったとされる。エレファンティネを首都とするこの州の厳密な境界ははっきりしないが、南はヌビアであるためアメンエムハト1世にヌビア人の血が入っているという説も存在する。
果てしない混乱の続いた第1中間期の終焉は人々の間に「救世主」によって救われたのだという観念を生み出した。こうした風潮を利用した第12王朝の王達は、先行した第11王朝の統一事業を無視し、文学作品を通じて統一者、救済者であるのはアメンエムハト1世であると言う政治宣伝を繰り広げた。
『ネフェルティの予言』は理想化された過去の時代である古王国時代の第4王朝を舞台にして神官ネフェルティスネフェル王に予言を聞かせるという形式の文書である。この文書によればネフェルティはスネフェル王の求めに応じて、全土が混乱と掠奪に晒されることや下エジプトナイル川デルタ地方)へのアジア人の侵入のあることを語った。そしてその混乱状態を救済する者として、南方からアメニ(アメンエムハト1世の通称)が現れ、彼が国土を統一するであろうと予言したとする。この作品はアメンエムハト1世の在位中か死亡直後に作成されたと考えられている。エジプトの混乱について述べる部分は『イプエルの訓戒』〔『イプエルの訓戒』についてはエジプト第1中間期の記事も参照。〕など他の文学作品の描写と符合し、明らかに第1中間期の社会を描いたものである。そして混乱を収める者としてアメンエムハト1世が登場するとし、しかもそれを数百年以上前に予言されていたこととすることで信頼性を得ようと試みている。
正統性を確保するため、また戦略的な理由から、首都をテーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメンアメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。〕)から古王国時代の首都メンフィスのそばに建設したイチ・タウィへと移した。「二つの土地の征服者」と言う意味の名を持つこの新首都は、正確な位置が未だ不明なままである。そして近郊のエル・リシュトピラミッド複合体の建設を行い、旧秩序の復活者としての立場を明確なものとしていった。更にアメンエムハト1世は第11王朝時代に任命されていた州侯を罷免し、王室に敵対的であるとして排除された有力者の地位を復活させた。これはアメンエムハト1世の即位が第11王朝の政策に不満を持つ有力者の支持を背景としたものであったためである。しかし、家臣が強大な権力を持つことは王権の側からは好ましいことであるはずも無く、第12王朝の歴代王は長期的には州侯などの権力を削いでいく方針を持って統治に当たった。そして息子のがアメンエムハト1世によって共同王に任命された。これによって王位継承を確かな物にしようとしたのであるが、これは後に大きな効果を発揮した。アメンエムハト1世が国内基盤の整備に力を注ぐ一方で、センウセルト1世は対外遠征を取り仕切り、シナイ半島リビア人への遠征を行った。
大きな業績をあげたアメンエムハト1世であったが、治世第30年(紀元前1962年頃)に衛兵によって暗殺された。『シヌヘの物語』〔全文の和訳が参考文献『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』に収録されている他、http://www.geocities.jp/kmt_yoko/index.html で、西村洋子による全訳と解説が掲載されている。〕と呼ばれる文学作品の記述を信ずるならば、その時共同王センウセルト1世はリビア人に対する遠征に勝利して帰還する途上であったが、父王暗殺の報を受けると軍隊を残し、少数の従者と共に急ぎ首都に帰還した。そして恐らくアメンエムハト1世暗殺によって王位を得ようとした別の王子を殺害し、混乱を素早く収集して王位を保持することに成功した。共同王を置いたことが王位簒奪の防止に有効であることが実例を持って証明され、以後第12王朝では代々共同王が置かれ続けた。
センウセルト1世は父王の政策を受け継いで国内の基盤整備に尽力した。南方のヌビアへの遠征が行われて重要な金鉱が確保され、騒乱に対応するために少なくても13の要塞を南部に建設した。彼は各地で熱心に建築事業を行い、現在でもエジプトの全域からセンウセルト1世にまつわる遺跡が残されている。中でも治世第30年に建設されたオベリスクは立った状態のまま現存するものとしては最古のものである。センウセルト1世は晩年、息子のを共同王に任命した。これによって大きな混乱も無く紀元前1926年頃のセンウセルト1世の死去に伴いアメンエムハト2世の治世が訪れた。
アメンエムハト2世と続くのあわせて50年余りにも及ぶ時代は安定した平和が継続していた。活発な建築活動が継続して行われており、また食糧生産の増加を目指して農地開発が行われた。センウセルト2世の時代に大規模な干拓工事がファイユーム()で着工された。ファイユームは当時ナイル川の水が流れ込んで作った湿地帯が広がり、農耕の困難な土地であったが、大規模な堤防を築くことでナイル川からの水の流入を防ぐことが試された。この大工事は彼の後継者〔ヘロドトスは、スキタイトラキアを征服したファラオ・を伝えているが、かラムセス2世と比定する説が有力である。〕の治世を経て、その次のの時代までかけて達成され、ファイユームはエジプト有数の穀倉地帯となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Twelfth Dynasty of Egypt 」があります。




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