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第1回ジャパンボウルは1976年1月18日、国立競技場で行われたカレッジフットボールのオールスター東西対抗戦。NCAA1部の133校から選ばれた52人が参加した。メンバーの半数は、オールアメリカンに選ばれていた〔巨漢ぞろい、軽快な動き米選手が初練習 ジャパンボウル 朝日新聞 1976年1月14日朝刊 17ページ〕。 午後1時から行われた試合には、前年の日本ラグビーフットボール選手権大会を上回る68,000人の観衆が集まり、東京オリンピック以来の大観衆であった〔五輪以来の大観衆 ジャパンボウル 朝日新聞1976年1月19日朝刊18ページ〕。オクラホマ大学のメンバーを中心とした西軍が27-18で勝利した〔第1回ジャパンボウル 本場の迫力と妙技 6万8000人が酔う 読売新聞 1976年1月19日朝刊16ページ〕。 NCAAが公認したアメリカ国外初の公式試合であった〔一月、東京で全米大学フットボール オールスター東西対抗 朝日新聞 1975年5月20日〕。 == 試合開催前の話題 == アメリカンフットボールは、本来はコンビネーションのよさが要求されるが、オールスターが即席チームであることから、西軍ヘッドコーチのカリフォルニア大学ヘッドコーチは、試合の最大の見所は個人技だと語った。また東軍ヘッドコーチのノースカロライナ大学ヘッドコーチは、出場する全員がNFLドラフトで上位指名を受けると語った。選手では、全米ナンバーワンとなったオクラホマ大学のリー・ロイ・セルモン、デューイ・セルモンのセルモン兄弟、、走る重戦車のニックネームを持つカリフォルニア大学の、ノースカロライナ州立大学の双子WR、QBデイブ・バッキー(Dave Buckey)が注目を集めた〔見せます豪快な肉弾戦 きょうジャパンボウル ずらり第一級 朝日新聞1976年1月18日朝刊14ページ〕。 ハイズマン賞を受賞したオハイオ州立大学のタックル、アーチー・グリフィンは故障のため来日しなかった。最も大柄な選手はアイオワ州立大学のボブ・ボスで197cm、115kg、最も小柄な選手はテンプル大学のキッカー、ドン・ビターリックで174cm、81kgであった〔"本場の迫力" 平均体重100kg 読売新聞 1976年1月16日16ページ〕。 この年、プロ入りしなかった選手はわずか2人であった〔アメリカンフットボール 年末年始ずらり好試合 読売新聞 1976年12月20日14ページ〕。 ハワイの高校時代にフットボール選手だった、大相撲の高見山大五郎が、本場所8日目を休場して試合観戦に訪れるのではないかという噂が立った。高見山本人は、見に行きたいがクビになると取材に答えた。高見山の師匠の高砂親方(元横綱前田山は本場所を休場して、日米野球を見に行き、引退勧告をされた。)〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第1回ジャパンボウル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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