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この後、10年以上にわたって続く桂園時代の初めの内閣である。桂太郎内閣は第3次まであり、第1次から第3次までを合わせた場合、歴代内閣史上最長の在任期間である。 ==概要== 前の第4次伊藤内閣の崩壊後、当初井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。山縣有朋系官僚を中心とした内閣であり、「二流内閣」と揶揄された。議会における与党は帝国党のみであり、伊藤博文の立憲政友会と大隈重信の憲政本党は野党に回った。伊藤博文の立憲政友会は軍備増強の必要性は認めたものの、桂の進める地租増徴ではなく行財政改革の徹底を求めた。 外交では1902年(明治35年)1月30日に日英同盟を締結してロシアとの対決姿勢を強め、内政では1903年に伊藤博文を枢密院議長に祭り上げ立憲政友会総裁を辞めさせることに成功した。政友会は代わりに総裁になった西園寺公望の元で党内融和が進んでいくことになった。 しかし親政友会の奥田義人法制局長官による行財政改革案を葬って辞任に追い込んだことが伊藤を含めた政友会の怒りを買い、内閣は攻撃され、一時は帝国憲法の停止を検討する程(1903年(明治36年)5月19日山縣有朋宛の桂書簡(「山県有朋関係文書」))の危機的状況を迎えていた。 また立憲政友会側では同年、衆議院議員3名が詐欺事件で有罪となり議員資格を喪失する事件が発生した〔千葉県選出議員東條良平、同大澤庄之助、同岡山県安井丈夫が議員資格を喪失した。安井は中国銀行前身会社の一つである岡山貯蓄銀行創立者(立身致富信用公録 、近代デジタルライブラリー)。なお同3名は異義を申立てた(帝国議会議事録 )。〕。同年の第19回帝国議会は12月5日から11日まで僅か7日間であった。 第1次桂内閣における最大の事跡は日露戦争である。桂太郎首相は、戦争中の政局の安定を図るため、立憲政友会との提携を希望して原敬との間で次の政権は政友会総裁の西園寺公望に禅譲するという政権授受の密約を交わす(ただし近年の原と桂の双方の日記の研究によって、当初はその時期を明確にしていなかったこと、日比谷焼討事件後の桂内閣の弱体化に危機感を抱いた双方の合意によって具体的な時期が定まったことが明らかになっている)。政友会の支持を得た第1次桂内閣は日露戦争を乗り切る。だが、多くの死傷者と度重なる非常特別税などの増税に苦しんだ民衆の不満は日比谷焼討事件となって爆発、また外交面ではポーツマス条約・第2次日韓協約・日清満州善後条約の締結によって一応の役割を果たした。このため、1905年(明治38年)12月に総辞職して、約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ることとなった。その在任期間は1681日で、1つの内閣としては日本憲政史上最長である(現在では総選挙が行われるたびに内閣が総辞職するため、衆議院議員の任期である4年(約1460日)を超えるのは不可能である)。 以後、元老・山縣有朋に支えられた桂と元老・伊藤博文に支えられた西園寺が交互に首班となって組閣したことから、1903年(明治36年)の西園寺の政友会総裁就任から、1913年(大正2年)の大正政変までの時期を桂園時代(けいえんじだい)と呼ぶ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第1次桂内閣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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