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第23SS義勇装甲擲弾兵師団 : ミニ英和和英辞書
第23SS義勇装甲擲弾兵師団[だい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
義勇 : [ぎゆう]
 【名詞】 1. heroism 2. loyalty and courage 
: [ゆう]
 【名詞】 1. bravery 2. courage 3. heroism 
装甲 : [そうこう]
  armoured 
擲弾 : [てきだん]
 (n) grenade
: [たま]
 【名詞】 1. bullet 2. shot 3. shell 
: [へい]
 【名詞】 1. (1) (common) soldier 2. rank and file 3. (2) army 4. troops 5. (3) warfare 6. strategy
: [し]
 【名詞】 1. (1) teacher 2. master 3. one's mentor 4. (2) the Reverend
師団 : [しだん]
 【名詞】 1. (army) division 
: [だん]
 【名詞】 1. body 2. group 3. party 4. company 5. troupe

第23SS義勇装甲擲弾兵師団 : ウィキペディア日本語版
第23SS義勇装甲擲弾兵師団[だい]

第23SS義勇装甲擲弾兵師団 ネーデルラント(オランダ第1)23. SS-Freiwilligen-Panzergrenadier-Division "Nederland" (niederländische Nr. 1))は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツ武装親衛隊師団。1945年に第4SS義勇装甲擲弾兵旅団「ネーデルラント」が師団に昇格して誕生した。ただし、名称こそ師団ではあるが、1945年時点での実際の兵力は1,000名程度に過ぎなかった。
「ネーデルラント」(Nederland : オランダ)という名称が示すように、この師団は主にオランダ人義勇兵で編成されていた。また、師団および旅団の前身である義勇部隊「ニーダーランデ」は1942年1月にレニングラード戦線へ到着して以来、東部戦線で戦った。
== 義勇部隊創設の背景 ==

1939年9月、ドイツ国防軍電撃戦によるポーランド侵攻が成功すると、1939年から40年にかけての西ヨーロッパ諸国におけるファシズム政党の支持者たちは、ドイツこそがボリシェヴィキ問題に対する答えであると見なした。ドイツによる西ヨーロッパ諸国の占領が一段落した1940年後半、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーはドイツ総統アドルフ・ヒトラーの許可を得て、ヨーロッパのゲルマン系兵士を集めて武装親衛隊に所属する外国人義勇兵部隊を編成する作業に着手した。こうして1941年4月にはSS義勇連隊「ノルトヴェスト(Nordwest)」が創設され、同連隊はオランダおよびベルギーのフラマン出身の義勇兵で構成されることになっていた。
ヒムラーやSS外国人義勇兵募集運動責任者ゴットロープ・ベルガーらによる外国人義勇兵募集運動は、西ヨーロッパ諸国、とりわけオランダのファシズム政党NSB(Nationaal-Socialistische Beweging, 国家社会主義運動)や類似の親独組織の支援を受け、入隊資格を満たす民族の多いオランダにおいて一定の成果を上げた。これに加え、元オランダ陸軍中将でNSBの熱烈な支持者であるヘンドリック・アレクサンダー・セイファルト(Hendrik Alexander Seyffardt)がSSの募集運動を支持したことにより、さらに多くのオランダ人義勇兵が集ることになった。SSに志願したオランダ人義勇兵たちは1941年4月までにハンブルクへ送られた。SSの担当官は彼ら義勇兵を「ノルトヴェスト」連隊に配属するため、素早く身体検査やその他の身辺調査を実施し、そして契約を結んだ。多くのオランダ義勇兵は自分たちが武装親衛隊の任務に就くことによって、ヒトラーが新たに築くであろう世界秩序の中でオランダが重要な位置を占めることができると考えていた。
しかし、1941年7月に「ノルトヴェスト」連隊は解隊され、連隊に所属していたフラマン人義勇兵とオランダ人義勇兵は分離され、それぞれ新たに創設された国別部隊(Legion)へ配属された。オランダ人義勇兵はSS義勇部隊「ニーダーランデ」(SS-Freiwilligen-Legion "Niederlande")へ所属することとなったが、多くがNSBの関係者であったオランダ人義勇兵はSSとの契約を続行し、同義勇部隊での任務に就いた。更なる訓練のために部隊は東プロイセンのArys(現ポーランド領Orzysz)に送られたが、オランダからドイツへ到着した新兵はハンブルクで基本訓練を行うこととなった。しかし、そこで新兵たちは武装親衛隊の訓練教官の傲慢かつ過酷な態度に直面し、彼らの持つ熱狂に冷や水を浴びせられた。これによって、義勇兵の中には失望して帰郷を企む者や自殺する者まで現れた。しかし、それでも多くの義勇兵は目的達成のために厳しい訓練を重ねた。
1941年の冬までに義勇部隊「ニーダーランデ」は1個歩兵連隊規模に拡大され、5個の自動車化された中隊とその他の諸中隊を有していた。これにより、NSBの指導者アントン・ムッセルト(en)は、同義勇部隊を新たなオランダ軍の前身になると見なしていた。
この一連の活動を、ドイツはオランダ人義勇兵の部隊がオランダ全土の望みであったかのように見せかけ、ドイツと共に独立したオランダが連合国と戦っているかのように見える印象操作を行った。セイファルトは義勇部隊の象徴的存在とされ、全てのオランダ人義勇兵は非公式のオランダの国旗(リンク先、プリンスの旗)を象った盾形の腕章を軍服の左袖に着用することを許可された。しかし、多くのオランダ人義勇兵は部隊が独立した存在であると信じていたが、セイファルトは部隊が武装親衛隊の指揮下にあるという事実に気付いた。セイファルトはドイツ側に抗議したが、ドイツはそれを無視した。セイファルトは強硬な反共主義者ではあったが、ナチスイデオロギーに心から賛同しているわけではなかった。
1941年11月、訓練を終えた義勇部隊「ニーダーランデ」はドイツ北方軍集団に所属することになり、レニングラード近郊の戦線へ送られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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