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『第28回NHK紅白歌合戦』は、1977年12月31日にNHKホールで行われた、通算28回目のNHK紅白歌合戦。21時から23時45分にNHKで生放送された。 == 概要 == テレビでのモノラル音声放送は今回が最後になった。VTRは2種類現存しており,1つは実況音声があり,実際に放送されたものと同じVTRともう1つは実況音声がなく,実際の放送が終了した直後も継続してNHKホール内の映像が数分間収録されているものがある〔当日の番組終了時刻の23時45分を過ぎても数分間はカメラが回っていたため。〕。また、ステージ上部に「(紅組歌手)VS(白組歌手)」が書かれた方向幕方式の装置が設置された。 両軍司会は4年連続で佐良直美・山川静夫が担当。4年連続同一コンビは史上唯一であり、佐良の4年連続(紅組司会における4年連続担当は佐良が史上初)、通算5回の紅組司会はいずれも黒柳徹子に並び史上最多記録である(ただし、黒柳は通算5回の紅組司会に加えて総合司会にも1回起用(第66回)されている)。 この年多数の芸能人が覚醒剤・大麻使用で逮捕されるという事態が発生。本紅白にも影響が及び、出場歌手・司会者選出も慎重に行われた。両軍司会は佐良・山川の安全パイを第一候補にしつつ、新鮮味を出す意味から佐良・相川浩、浅茅陽子・山川、森昌子(世論調査の女性部門1位)・堺正章の3案が検討された。現場側からはこの年最大の人気者・昌子を推す声もあったが、「やはり今年はこういう時期だから」と安全な佐良・山川で落ち着いた〔合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』、125~126頁。〕。 紅組のトップバッターを務めた桜田淳子は歌詞の"♪去年のトマトは 青くて固かったわ"の部分を即興で"♪白くて駄目だったわ"と替えて歌い、紅白を盛り上げた。 西城秀樹とキャンディーズの曲間で第1回中間審査のファンファーレを間違って演奏してしまうハプニングがあった。なお、ファンファーレはキャンディーズの歌唱後に再び演奏された〔これが正確なもの。曲間のファンファーレは、実際にはスタンドマイクとスクールメイツのスタンバイのためのインターバルであった〕。 この年他界した海外の歌手を追悼し、紅組はエルヴィス・プレスリーを偲んで佐良直美が「ラブ・ミー・テンダー」と「ハウンド・ドッグ」のメドレー、白組はビング・クロスビーを偲んで菅原洋一が「奥様お手をどうぞ」を歌唱した。追悼コーナーの冒頭、放送直前の12月25日に逝去したチャールズ・チャップリンを偲び、中村メイコがメッセージを読み上げ、三波伸介がチャップリンに扮した。オチは「あなた(チャップリン)が亡くなられた年齢は88歳、今夜演じましたチャップリン88キロでした」と中村が言うと三波がズッコケて大爆笑となった。 「イミテイション・ゴールド」を歌唱した山口百恵は、本番前紅白が用意した特別衣装が無くなるトラブルが発生。急遽代替として、当時「赤い絆 (レッド・センセーション)」を歌う際での衣装を着用した。 由紀さおりの「う・ふ・ふ」は、最後の「なるようになるわね」の歌詞部を「紅組の勝利よ〜!」と差し替えて歌い終える。その後紅組歌手達が「紅組勝利決定 う.ふ.ふ.」の垂れ幕を掲げていた。 ちあきなおみの「夜へ急ぐ人」における鬼気迫るパフォーマンスが視聴者の度肝を抜き、山川はこれに関して「何とも気持ちの悪い歌ですねぇ〜」と返した。一方佐良が歌手として出演する際の代理の曲紹介は山川が行った。 紅組トリの八代亜紀、白組トリおよび大トリの五木ひろしいずれも歌唱後に演奏されるファンファーレ(別名・大エンディング)は今回には一切演奏されなかった(翌年の第29回も同様。なお第44回(1993年)でもトリ歌手のファンファーレはなかった)。紅組トリは第1回(1951年)以降、第4回(1953年12月)を除き〔第4回は淡谷のり子がトリを取ったとされているが、渡辺はま子がトリを取ったという異説もあり、渡辺説を採用すれば、全ての回でコロムビア所属の歌手が紅組トリを務めたことになる。〕一貫してコロムビア所属の歌手が務めていたが、今回はテイチク所属の八代がトリに起用された。当時は同じレコード会社に所属している歌手同士は対戦できないとされていたため、村田英雄などのコロムビア所属の男性歌手は白組トリを務めることができなかった〔合田道人『紅白歌合戦の真実』〕。なお、紅白史上初めてコロムビア所属男性歌手がトリを務めるのは第34回(1983年)の細川たかしまで待つことになる。 トリ選考時では、紅組トリに小柳ルミ子、白組トリに沢田研二の起用案も最終候補に残っていた。 五木は3年連続での白組トリ担当となったが、今回は自身初の大トリ担当である。 優勝は白組。優勝旗授与は審査員の市川染五郎(現:松本幸四郎)が行った。優勝旗を受け取った山川は佐良に対し、「佐良さん、これで来年は安心してお嫁に行ってください」と述べた。 4年続いた佐良・山川のコンビによる両軍司会は今回が最後となった。翌年の司会選考時では、「佐良・山川の5年連続起用はさすがにマンネリ」との声が上がり、最終的に白組司会は山川が続投した(山川についても交代が検討された)が、紅組司会は佐良に代わって森光子が第13回(1962年)以来16年ぶりに再登板することとなった(佐良は以後司会を担当していない〔ただし2年後の第30回(1979年)では、再び紅組司会の候補に挙がったという(起用には至らず)。〕)。なお佐良は翌年も出場歌手専任で出演し、彼女の歌唱前、光子は「去年(今回)も一昨年も先一昨年もその前も紅組の司会、本当に御苦労様でございました」「あなたの作り上げてくださった紅組のチームワークに守られて帰り新参の私も頑張っております」と感謝のメッセージを述べる場面があった。 1996年・2001年に『思い出の紅白歌合戦』(BS2)で再放送された。今回までの再放送では番組冒頭に「古い映像のため画面・音声が乱れる」といったテロップが表示された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第28回NHK紅白歌合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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