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『第34回NHK紅白歌合戦』(だいさんじゅうよんかいエヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、1983年(昭和58年)12月31日にNHKホールで行われた、通算34回目のNHK紅白歌合戦。21:00 - 23:45(JST)にNHKで生放送がされた。ステレオ放送。 == 概要 == * 前回の視聴率70%割れ(69.9%)から「視聴率を復活させよう」とNHK・各レコード会社が躍起し番組作りが行われた。最初に行われたのは両軍司会の人選であり、白組司会については、前回まで9年連続での担当者だった山川静夫から彼の先輩であり当時視聴率40%を記録していた『クイズ面白ゼミナール』の司会者で著書『気くばりのすすめ』が300万部突破のベストセラーを記録した鈴木健二に交代。鈴木はこれまで音楽番組と縁がなく、紅白も視聴したことがなかった(ただし、第31回(1980年)に応援ゲストとして出演歴はあり)。さらに歌手も歌も知らず、カラオケで歌ったこともないという〔『紅白50回』、85頁。〕。 * 紅組司会については、当初当時放送中で高視聴率(最高60%)を記録していた連続テレビ小説『おしん』の出演者である田中裕子(ヒロイン)か泉ピン子(ヒロインの母親役)を据える計画があったという(60%の『おしん』、40%の『クイズ面白ゼミナール』で合計100%構想)。しかし最終的には1度はリストから完全に消えていた黒柳徹子が続投することとなった(4年連続起用)〔田中は本紅白に審査員として出演した。泉は1977年に「哀恋蝶」が10.9万枚(オリコン最高位37位)のヒットを記録したが紅白には落選となった経緯がある。紅白に対しては「歌手としての意地がある」と何度も応援出演を断っていた(http://www.daily.co.jp/gossip/2014/09/04/0007299197.shtml デイリースポーツ(2014年9月4日))。〕。黒柳は司会発表会見で「週刊誌では『気くばり先生』と『おしん』と書かれていたようで…。新鮮味に欠ける私で申し訳ありません」と述べた。一方、黒柳の著書『窓ぎわのトットちゃん』がこの時点で563万部を突破しており、ベストセラー作家同士の両軍司会として話題にもなった〔合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』全音楽譜出版社、2012年。〕。黒柳の4年連続、通算5回の紅組司会はいずれも佐良直美に並び史上最多記録である(ただし、黒柳は通算5回の紅組司会に加えて総合司会にも1回起用(第66回)されている)。 * 総合司会には前年開始のフジテレビ系列『森田一義アワー 笑っていいとも!』で大ブレイクしていたタモリを起用。初めてNHKアナウンサー以外の人物が総合司会を務めた。総合司会にNHKアナウンサーが起用されなかった事例は今回のみとなっている。 * 前回まで2年連続で総合司会を務めた生方惠一が得点集計進行を担当。なお生方は翌年の第35回に2年ぶりに総合司会に復帰している。 * 山川の降板について、各新聞・雑誌は「山川降ろされる」と報じた。民放のワイドショーは静岡県の山川の自宅を突撃取材し、山川の母親に「(息子の白組司会降板が)悔しいですか?」と質問をぶつける一幕もあった(母親は「悔しくないです。大晦日は一緒に過ごせるので」と回答したが、ワイドショー制作班はしつこく「悔しいですか?」と聞き続けたという)。山川自身は黒柳が紅組司会続投となったため、「僕だけが責任を取らされた」と思っており、他に「悔しいより腹立しかった」「69.9%のどこが悪いのか」と感じていたと話す〔『紅白50回』〕。 * 今回の歌手リーダーについて、紅組は都はるみ〔前回まで2年連続で務めた同期で盟友の水前寺清子に替わって担当。なお翌年の第35回では、水前寺がこの座に2年ぶりに復帰している。〕、白組は北島三郎(3年連続)がそれぞれ務めた。 * オープニングでタモリは客席に「選手宣誓、行ってもいいかな?」と聞き、観客に「いいともー!」と言わせる例のコール&レスポンスを行った〔『litera』2013年12月3日付〕。 * 白組トップバッターから3番手までに、西城秀樹、野口五郎、郷ひろみの「新御三家」が起用したり、当時人気No.1のアイドルであった松田聖子、田原俊彦の曲順を終盤に組み込むなど、前回の反省から、曲順にも大胆な試みがなされた。 * 当時は、曲間に出演者たちが総出でアトラクションを行うことがあり、郷歌唱後にラテン風の衣装で「ビギン・ザ・ビギン」が歌われ、沢田研二歌唱後に「紅白俵積み合戦」、サザンオールスターズ歌唱後に「日本の四季メドレー」が行われた。中森明菜も若手アイドルの中心として「ビギン・ザ・ビギン」・「日本の四季メドレー」に参加予定だったが、本番の数日前に足を脱臼したため、急遽杏里が代役を務めた。 * 同日の第25回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞した森昌子は、「越冬つばめ」の歌唱途中で感極まり、涙を流しながらの熱唱となった。 * 紅組トリは水前寺清子が出場19回目にして初めて、白組トリおよび大トリには細川たかしがこちらも出場9回目にして初めて抜擢された。 * 水前寺は紅白の直前に、最大の理解者であった父親が死去。彼女の1度限りの紅組トリは終始涙を浮かべての悲しみを押し殺してのステージとなった。黒柳は「天国のお父ちゃん、聞こえますか?」と曲紹介時に述べた(黒柳の言葉を聞いた水前寺は父親に届いたと思ったという)。なお、水前寺は11月20日の時点で紅組トリ担当を知らされていたが、関係者や親族にもそのことを明かしてはならないとの注文がNHK側から付けられていたために、病床の父親にもその事実を告げることができなかったことが心残りとなっていると言い、この事実を父親に告げていれば、紅白本番の時まで父親は生きていてくれたのかもと思っていると話す〔『紅白50回』〕。 * 白組トリは当初北島三郎に内定していたが、「矢切の渡し」が大ヒットしていた細川が最終的に逆転して起用が決まった〔合田『紅白歌合戦の舞台裏』〕。なお、コロムビア所属男性歌手がトリを務めるのは今回の細川が史上初。その細川も同日第25回日本レコード大賞を獲得、紅白初の大トリに思わず男泣きの歌唱となったが、その最中「夢芝居」のロングヒットで紅白初出場の梅沢富美男が自ら女形の舞を披露していた。 * 優勝は白組。 * 今回から金杯・銀杯の授与が採用された(第36回(1985年)まで)。今回の金杯は沢田研二に、銀杯は水前寺にそれぞれ授与された。翌年の第35回以降は優勝したチームから金杯の受賞者が、敗退したチームから銀杯の受賞者が選出されることとなった。 * 今回の平均視聴率は74.2%を記録、70%台復活を果たした。 * 放送後、マスコミが鈴木に対し、「NHKのピエロ」と批判を行った〔『紅白50回』、86頁。〕。 * 翌年の第35回も当初番組側は黒柳に紅組司会の打診を行ったが、黒柳は「もう今年が引き時では」と辞退を申し入れる(紅組司会は同年紫綬褒章を受章し、黒柳とも親交がある森光子に交代となった)。そして、黒柳は第66回(2015年)で総合司会を務めるまで紅白の司会をすることはなかった(ただし、この間第45回(1994年)で紅組司会再登板の可能性が取り沙汰された)。一方、鈴木は翌年も白組司会を続投した(今回の実績から続投が早々に決まったという。合わせて鈴木とのバランス(トーク技術)から当初は黒柳の紅組司会続投で決まりかける格好となる)。 * 1995年と1999年に、『思い出の紅白歌合戦』(BS2)で再放送された。 * 第65回(2014年)で黒柳とタモリが揃ってゲスト審査員を担当。同回のオープニングで2人が今回のことを話す演出があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第34回NHK紅白歌合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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