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薄雲(うすぐも)は日本海軍の駆逐艦〔#日本軍艦集2600年版p.44『一等驅逐艦 薄雲(うすぐも) 基準排水量1,700噸、長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2.97米、速力34節、備砲12.7糎砲6門、魚雷發射管9門、起工大正5年10月21日、進水昭和2年12月26日、竣工昭和3年7月26日、建造所石川島造船所-特型驅逐艦。雲級にはこのほかに、東雲、白雲、叢雲の三隻がある。』〕。一等駆逐艦吹雪型(特型駆逐艦)の7番艦〔#艦艇類別等級表(1941年12月31日)p.3『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|吹雪型|吹雪、白雪、初雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、天霧、狭霧、夕霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、朝霧』(4番艦の深雪は除籍済)〕。雲級(くもクラス)の1隻〔#ポケット海軍年鑑(1935)p.48『一等驅逐艦 "東雲 しののめ" 全要目排水量1,700噸 速力34.0節 備砲12.7糎砲6門 魚雷發射管9門 起工大正15年8月 竣工昭和3年7月 建造所佐世保海軍工廠}東雲も浦波と同型の1,700噸級の驅逐艦である。浦波のところで驅逐艦の使命とするところは魚雷襲撃にあると云つたが、その外に驅逐艦は種々の重用任務に使用される。その中第一に擧ぐべきは潜水艦撃攘である。その得意とする快速力と輕快極まる操縦性及び潜水艦の魚雷を恐れぬ吃水の淺少さ等を利して敵潜水艦のゐる海上を爆雷を投射しつゝ縦横無盡に走りまはる驅逐艦は潜水艦にとつては何よりも恐るべき敵であらう。故に驅逐艦に襲はれたら最後潜水艦は上記の如き驅逐艦の特長と全然相反する弱點をもつため到底これに刄向ふ力はなく、うまく逃げをはせることが出來れば僥倖と云ふところである。』〕〔#ポケット海軍年鑑(1937)p.47『一等驅逐艦 "叢雲 むらくも" 全要目 一等驅逐艦中、特型と呼ばれるのがこの1,700頓驅逐艦である。12.7糎砲は6門、魚雷發射管は實に9門を有つてゐる大型驅逐艦である。長さ113.2米、幅10.3米、平均吃水2.97米。近頃は驅逐艦も航空機に對する兵装を改善し、更に新鋭なる武器を装備し、空中からの攻撃を反撃しつゝ戦闘をつゞけなければならない。水上にあつては隊伍を組んで主力艦に肉薄し魚雷戦を挑む外に水中の敵潜水艦を驅つて輕快なる運動と機敏なる操縦によつて爆雷をもつて戦ふのである。驅逐艦生活も亦、限りなく男兒を魅するかずかずの壮烈さをもつてゐる。雲級には"薄雲 うすぐも" "白雲 しらくも" "東雲 しののめ"がある。』〕。当初の艦名は、第41号駆逐艦〔#達昭和3年6月pp7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|(略)第四十一號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 薄雲(ウスグモ)トス』〕。この名を持つ日本海軍の艦船としては東雲型駆逐艦「薄雲」に続いて2隻目〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.74『叢雲|(起工)明治30-10|(進水)明治31-11-16|(竣工)明治31-12-29|(建造所)英國ソーニ・クロノト社/東雲|明治30-10|明治31-12-14|明治32-2-1|同/夕霧|明治30-11|明治32-1-26|明治32-3-10|同/不知火|明治31-1|明治32-3-15|明治32-5-15|同/陽炎|明治31-8|明治32-8-23|明治32-10-31|同/薄雲|明治31-9|明治33-1-16|明治33-2-1|同』〕。 ==艦歴== === 太平洋戦争以前 === 1926年(大正15年)9月29日、建造予定の駆逐艦4隻にそれぞれ「第三十七号駆逐艦(のちの初雪)」、「第四十一号駆逐艦(〃薄雲)」、「第四十二号駆逐艦(〃白雲)」、「第四十三号駆逐艦(〃磯波)」の艦名が与えられる〔#達大正15年9月p.15『達第九十三號 艦艇製造費ヲ以テ大正十五年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等驅逐艦四隻ニ左ノ通命名ス|大正十五年九月二十九日 海軍大臣 財部彪|舞鶴要港工作部ニ於テ建造 第三十七號驅逐艦|石川島造船所ニ於テ建造 第四十一號驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第四十二驅逐艦|浦賀船渠ニ於テ建造 第四十三號驅逐艦』〕。同日附で4隻は一等駆逐艦に類別される〔#達大正15年9月p.16『達第九十四號 艦艇類別等級表中驅逐艦一等ノ項「第三十五號」ノ下ニ「第三十七號」ヲ、「第四十號」ノ下ニ「第四十一號」「第四十二號」「第四十三號」ヲ加フ|大正十五年九月二十九日 海軍大臣 財部彪』〕。 「薄雲」は東京石川島造船所で同年10月21日に起工、1927年(昭和2年)12月26日に進水、1928年(昭和3年)7月26日に竣工〔#艦船要目公表範囲(1937年12月1日)p.4『薄雲|(艦要目略)|石川島造船所|大正15-10-31|昭和2-12-26|3-7-26|(装備略)』〕。「薄雲」の建造スケジュールは、姉妹艦3隻(東雲、白雲、磯波)とほぼ同一だった〔#艦船要目公表範囲(1937年12月1日)p.4『東雲|(艦要目略)|佐世保工廠|大正15-8-12|昭和2-11-26|3-7-25|(装備略)』〕〔#艦船要目公表範囲(1937年12月1日)p.4『白雲|(艦要目略)|藤永田造船所|大正15-10-27|昭和2-12-27|3-7-28|(装備略)』〕〔#艦船要目公表範囲(1937年12月1日)p.4『磯波|(艦要目略)|浦賀船渠會社|大正15-10-18|昭和2-11-24|3-6-30|(装備略)』〕。 竣工から一週間もたたない8月1日附で「第41号駆逐艦」は「薄雲」と改名される〔。同年12月1日、第二艦隊・第二水雷戦隊・第12駆逐隊に編入された。 1935年(昭和10年)4月、満州国の愛新覚羅溥儀皇帝が戦艦「比叡」(当時艦長井上成美大佐)を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)は御召艦「比叡」の供奉艦に指定された〔#満洲国皇帝御行動に関する件p.9『二.御召艦及供奉艦 御召艦 軍艦比叡 供奉艦 第十二駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)』〕。第12駆逐隊は「比叡」を護衛して日本と中国大陸を往復した。 同年9月26日、「薄雲」は三陸沖で演習中、台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇する。当時、第四水雷戦隊旗艦「那珂」は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた〔#夕霧初雪遭難事件報告(1)p.3『航行隊形』/pp.42-45『別紙第三、主ナル被害損傷調』〕。艦首切断に至った「初雪、夕霧」ほどではないものの、「薄雲」は若干の被害を受けた〔#夕霧初雪遭難事件報告(1)p.44『十二驅|薄雲|一.第一防水區劃外鈑「リベット」弛緩/二.第三兵員室支柱湾曲/三.第六兵員室支柱湾曲』〕 日中戦争に際しては1940年(昭和15年)7月以降、第二遣支艦隊(指揮官高須四郎中将:旗艦「鳥海」)に編入され、中国大陸へ進出。日中戦争にともなう華中での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦などに参加した〔#海軍三等士官167頁〕。姉妹艦「叢雲」と共に大陸沿岸部封鎖作戦に従事中、ホ田市の興化湾・南日水道で日本軍の機雷に触雷して大破〔#海軍三等士官168-169頁〕。掃蕩戦を終えた「叢雲」は満潮時になるまで水道通過を見合わせ湾内に停泊しており、『お先に』の信号を残して単艦出港した「薄雲」が触雷する結果となった〔。「薄雲」は「叢雲」に台湾まで曳航される〔。そこから内地へ帰投し、10月11日に呉へ到着〔#支那事変第8回功績(12駆)p.22『十二驅薄雲|全般|勲功乙|自昭和十五年七月八日至昭和十五年十月十一日|南支沿海(分擔區城南岐山列島ヲ通ズル一四〇度線以南大窄角ヲ通ズル一四〇度線以北)ニ行動シ船舶ノ交通遮断敵沿岸兵力竝ニ軍事施設ノ監視警戒攻撃要地ノ掃蕩等ニ従事ス|上記任務ヲ遂行シ以テ作戰目的達成上多大ノ効果ヲ収メタリ|十月十一日呉歸着』〕。呉工廠で修理をおこなう。 第12駆逐隊から除籍された後は、呉鎮守府司令長官(日比野正治中将)直率部隊として待機〔#支那事変第9回功績(薄雲)p.1『(期間)自昭和十五年十一月十六日至昭和十六年二月二十日|呉鎮守府司令長官直率部隊トシテ呉軍港及所在海面防衛警戒ニ任ズ』〕。1941年(昭和16年)2月14日に呉を出発し、16日に舞鶴港到着〔#支那事変第9回功績(薄雲)p.1『参考事項|二月十四日呉軍港出港同十六日舞鶴軍港ニ入港』〕。呉鎮守府籍第四予備駆逐艦のまま、舞鶴防備隊に附属〔#支那事変第9回功績(薄雲)p.1『自昭和十六年二月二十一日至昭和十六年三月十九日|(略)|呉鎮守府第四予備駆逐艦ノ儘舞鶴防備隊ニ附属|舞鶴鎮守府令達ニ依ル』〕。舞鶴工廠で修理を実施しつつ待機した〔#支那事変第9回功績(薄雲)p.1『自昭和十六年三月二十日至昭和十六年五月三十一日|一.呉鎮守府機密第五號ノ一二九及舞鶴鎮守府第三號ノ二六ノ二ニ依ル舞鶴鎮守府防衛管區ノ警戒防衛任務ニ従事/二.昭和十六年度舞鶴鎮守府第二.三.四回防空訓練ニ参加シ舞鶴方面部外防空指導ニ任ズ』〕。以後は1942年(昭和17年)7月30日まで修理と待機を続けた。 1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、駆逐艦「薄雲」は姉妹艦「白雲」と第51駆逐隊を編制〔#昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他p.1『呉|第五十一驅逐隊|薄雲、白雲|(戦時編制ニ依ル所属)第五航空戦隊』〕。さらに第51駆逐隊(薄雲、白雲)は空母「赤城」および「加賀」と共に第五航空戦隊を編制する予定とされた〔#昭和17年度帝国海軍戦時編制p.5『艦隊|第一航空艦隊|第一航空戦隊/翔鶴、瑞鶴、第十一驅逐隊|第二航空戦隊/蒼龍・飛龍・第十二驅逐隊|第四航空戦隊/龍驤、《飛鷹》、《隼鷹》、第三驅逐隊|第五航空戦隊/赤城、加賀、第五十一驅逐隊|第六航空戦隊/《第三十一驅逐隊》/特設航空母艦三』〕。しかし太平洋戦争の勃発により本編制は実現せず、第51駆逐隊(薄雲、白雲)が「赤城、加賀」と行動する事はなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Japanese destroyer Usugumo (1927) 」があります。 スポンサード リンク
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