|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 第 : [だい] (n,pref) ordinal ・ 回 : [かい] 【名詞】 1. counter for occurrences ・ 紅 : [べに, くれない] 【名詞】 1. deep red 2. crimson ・ 紅白 : [こうはく] 【名詞】 1. red and white 2. colours for festive or auspicious occasions (colors) ・ 紅白歌合戦 : [こうはくうたがっせん] (n) annual singing contest held on New Year's Eve ・ 白 : [しろ] 【名詞】 1. white ・ 歌 : [うた] 【名詞】 1. song 2. poetry ・ 歌合 : [うたあわせ] 【名詞】 1. poetry contest ・ 歌合戦 : [うたがっせん] (n) singing matches ・ 合 : [ごう] 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) ・ 合戦 : [かっせん] 【名詞】 1. battle 2. engagement ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight
『第41回NHK紅白歌合戦』(だいよんじゅういっかいエヌエイチケーこうはくうたがっせん)は、1990年(平成2年)12月31日にNHKホールで行われた、通算41回目のNHK紅白歌合戦。19時20分 - 20時55分および21時から23時45分にNHKで生放送された。 == 概要 == *前回から2部構成(昭和編・平成編)になっていたが、この時は採点の対象は第2部だけだった。今回から第1部も採点の対象となった。その影響で、この年から放送時間の前半が『第32回日本レコード大賞』とバッティングするようになり、歌手の奪い合いや掛け持ちによる大移動などの問題が生じた。『日本レコード大賞』を中継するTBSはこの年も紅白が『レコード大賞』の裏番組となることに大慌てとなったという。TBS制作部長は「過去何十年かこういう形でやってきて、大衆の皆さんが納得してきたわけですからね。昨年は平成スタートと、紅白40回の記念イヤーでしたから目を瞑りましたが、まさか今年もとは思っていませんでしたよ。民放同士ならともかく、公共の電波であるNHKが視聴率稼ぎの方向に走ってはね」とNHKに苦言を呈している。長時間紅白の定着により毎回視聴率30%を誇っていた『レコード大賞』は視聴率を低下させていくこととなり、後の2006年での大晦日撤退(12月30日開催へ移行)に繋がる(『レコード大賞』は紅白対策でこの年より「歌謡曲・演歌部門」「ポップス・ロック部門」の2部門、即ち2組のグランプリを輩出させる形に変更するなど、工夫を凝らすようになる)〔合田道人『紅白歌合戦の真実』、292頁。〕。 *両軍司会については、紅組司会には2年連続で三田佳子(「好きな俳優・タレント」で2年連続1位を獲得したことが続投の決め手となる)、白組司会にはこの年の大河ドラマ『翔ぶが如く』の主演・西田敏行(出場歌手兼任。前回は審査員)がそれぞれ起用された〔合田『紅白歌合戦の真実』、293頁。〕。 *その年の『大河ドラマ』の主演者が紅白の司会に起用されるケースは史上初である〔三田も『大河ドラマ』の主演経験者(1986年作品『いのち』主演)であり、史上初の『大河ドラマ』主演経験者同士の両軍司会となった。〕。 *司会発表前に『週刊女性』(1990年12月4日号、210頁)が「紅組司会は三田、白組司会は加山雄三か堺正章」と両軍司会の人選予想を行っていた。なお、堺は翌年の第42回で西田に代わって白組司会を初担当。 *両軍トップバッターはDREAMS COME TRUE(先行)・光GENJIが担当。なお、トップバッターが両軍共にグループというケースは史上初。ドリカムはバンド且つ紅組出場のグループ・男女混成グループで史上初のトップバッター担当となった。同じくドリカムは初の先行トップバッターを担当したグループとなった。 *中継で歌う演出が初めて行われ、長渕剛はベルリンから中継で3曲歌う。この時の歌唱時間15分以上〔長渕剛 13年ぶり紅白出場へ 、スポニチアネックス、2003年11月26日。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)〕(17分とも)は紅白史上最長であった。またこの時、長渕は歌唱前に「こちらに来ましたら現場仕切ってるのみんなドイツ人でしてね。共に戦ってくれる日本人なんて一人もいませんよ。今の日本人、タコばっかりですわ」とスタッフに対する非難を口にした〔。しかし、中継先で歌う演出はNHKホールの観客や、他の出場歌手にも不評を買い、翌年の第42回以降は全出場歌手がNHKホールで歌う形に戻っている。その後、中継先で歌う演出は12年後の第53回(2002年)まで行わなかった。 *宮沢りえに至っても当日、会場入りしながらも「制約の有るNHKホールのステージでは歌いたくない」との理由で、本人歌唱の際は屋上に作られた特設セット(バスタブの中に入っていた)から、ストーリー仕立ての中継となった(第55回(2004年)に初出場した氣志團がこの演出をオマージュ)。そのためNHKホールの会場や、視聴者の中にも「紅白らしいライブ感が無い」と不満の声はかなり多かった。なお宮沢の紅白出場は今回のみとなっている。 *上述のように話題のアーティストに対して多くの演奏時間が用意された反面、番組進行は、本格的に放送時間を拡大した初めての年であるにも関わらず、司会の曲紹介や応援ゲストの出演時間の割愛・短縮、また本編の歌手の歌の時間も本来2コーラス披露する予定となっていたものを、1コーラス半に短縮せざるをえなくなるなど、相当に慌しいものとなってしまった。特に植木等の「スーダラ伝説」はフルコーラスの10分41秒から4分50秒にまで短縮させられた〔。このことから、常連の紅白出場歌手や関係者の多くからも「衛星中継の多用」や「演奏時間の不均衡」につき少なからず不満・批判が主張され、特に上記の長渕に関しては、多くの常連出場歌手との間で「遺恨」を残す結果となってしまった(長渕はその後、第54回(2003年)にて13年ぶりに出場。この時は今回の反省から会場出演で1曲のみ、しかも森進一の応援演奏・コーラスを率先して行うなど一転して「紳士的」とも言える対応を見せ、この時の遺恨はある程度解消される格好となった)。 *西田が歌手として出演する際の代理の曲紹介は三田が行い、三田に寄り添いながら西田が「もしもピアノが弾けたなら」を歌唱した。 *本紅白に出場した和田アキ子(紅組司会経験者且つ三田の前任者)は裏番組『第32回日本レコード大賞』の司会も務めた。史上初の紅白出場歌手と裏番組司会の兼任となった。なお『日本レコード大賞』終了後、NHKホールに駆け付けた。NHK内部で裏番組の司会に就任した和田を落選させるべきとの声も上がったという〔合田『紅白歌合戦の真実』、293頁。〕。 *前回のステージで歌手活動再開(同日のみの復帰と発表していたが、この年歌手活動を完全再開)を果たした都はるみが「千年の古都」で紅組トリを務めた。紅組トリ担当は引退ステージとした第35回(1984年)以来となった。 *白組トリおよび大トリは森進一の「おふくろさん」。森の白組トリ担当は今回が最後となった。 *優勝は白組。 *様々な試みが功を奏して、第2部の視聴率が関東地区では51.5%を記録した。以後、1990年代は50%台を維持するようになる。 *西田は紅白の司会担当は今回1度限りだが、その後も幾度か白組司会の候補に挙がったことがあるとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第41回NHK紅白歌合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|