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第1挺進集団(だいいちていしんしゅうだん、''第一挺進集団'')は、大日本帝国陸軍の空挺部隊。挺進集団は既存の挺進団(挺進連隊・滑空歩兵連隊)などを掌握する師団に準ずる部隊であり、旧日本軍の空挺部隊としては最大であった。集団としてまとまって運用される機会は無く、分割されてフィリピンの戦いなどに参加した。 帝国陸軍における挺進集団(第1挺進集団)の軍隊符号はRD(1RD)、通称号(兵団文字符)は鸞(らん)。 == 沿革 == === 誕生まで === 空挺部隊の研究に着手した日本陸軍は、1940年(昭和15年)末に浜松陸軍飛行学校に練習部を設置し、翌1941年(昭和16年)に満州の白城子陸軍飛行学校へと移転した。さらに同年10月には陸軍航空総監に隷属の陸軍挺進練習部となり、宮崎県の新田原に移った〔土肥原賢二「陸軍挺進練習部編成並白城子陸軍飛行学校練習部復帰完結の件報告」アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C04123718200〕。以後、この陸軍挺進練習部が、日本陸軍空挺部隊の研究・養成の中心となった。 太平洋戦争序盤の南方作戦に向けては、実戦部隊として2個挺進連隊と挺進飛行戦隊(輸送機隊)から成る第1挺進団が編成された〔土肥原賢二「第1挺進団臨時編成完結に関する書類提出の件報告」JACAR Ref.C04123676400〕。これは一般の日本陸軍航空部隊における飛行団に相当する旅団規模の部隊で、団長には挺進練習部長だった久米精一大佐が着任した。他国の空挺部隊と比較すると、陸戦要員だけでなく輸送機部隊までも含めた編制となっているのが特色である。同部隊はパレンバン降下作戦を実施した。 南方作戦終了後の1942年6月に第1挺進団は日本本土に帰還して復帰し、隷下部隊は挺進練習部の下に集まった。翌1943年(昭和18年)に再び第1挺進団が動員されてニューギニア戦線へと向かったが、実際に作戦投入はされずに1944年(昭和19年)7月に本土へ帰還した。 この間、日本陸軍は、グライダー空挺部隊の編成など空挺部隊の拡充を進め、その一環として飛行師団級の部隊の創設も検討されはじめた。しかし、2個師団の創設案が出たが実現しないまま、1944年10月の連合国軍のフィリピン反攻を迎え、11月初旬にとりあえず旅団級の第2挺進団が新たに動員された。その後、同月11月末に挺進練習部を廃止して第1挺進集団が編成され、日本陸軍初めてにして唯一の師団規模の空挺部隊が誕生することになった。集団司令部は11月26日に編成下令され、同月30日に編成完結した。第1挺進集団の隷下には、2個の挺進団をはじめ、輸送機部隊である挺進飛行団など全ての陸軍空挺部隊が収まる建前とされた。集団長には挺進練習部長の塚田理喜智少将がそのまま着任した〔防衛庁防衛研修所戦史室(1976年)、271頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第1挺進集団」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Teishin Shudan 」があります。 スポンサード リンク
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