|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 第 : [だい] (n,pref) ordinal ・ 第一 : [だいいち] 1. (adv,n) first 2. foremost 3. # 1 ・ 第一次 : [だいいちじ] 【名詞】 1. the first .. 2. primary ・ 一 : [いち] 1. (num) one ・ 一次 : [いちじ] 1. (adj-na,n) first 2. primary 3. linear (equation) 4. first-order ・ 次 : [つぎ] 1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station ・ カー : [かー] 【名詞】 1. car 2. (n) car ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict
第一次カーンズタウンの戦い()は、南北戦争2年目の1862年3月23日、バージニア州フレデリック郡とウィンチェスター市で起きた戦闘であり、南軍のストーンウォール・ジャクソン少将によるシェナンドー・バレーを通るバレー方面作戦の緒戦となった。 ジャクソンは、ナサニエル・バンクス少将の全体指揮下にあるバレーの北軍を足止めさせようとしている時に、ネイサン・キンボール大佐の小さな分遣隊が脆弱な状態にあるという情報を受け取った。しかしそれは誤報であり、実際にはジャクソンの部隊の2倍以上ある完全な歩兵師団だった。ジャクソン隊から出た騎兵の攻撃は撃退され、即座にそれを小さな歩兵旅団で補強した。ジャクソンは他の2個旅団でサンディリッジを通り北軍の右翼を包囲しようとした。しかし北軍エラスタス・B・タイラー大佐の旅団がこの動きに対応し、キンボールの旅団がその支援に動いた時に、南軍は戦場から追い出された。北軍はその後追撃を掛けなかった。 この戦闘は南軍の戦術的敗北だったが、北軍が南軍の首都リッチモンドに対して半島方面作戦を仕掛けている時であり、これにシェナンドー・バレーから援軍を送ることを妨げたので、南部にとっては戦略的勝利と考えられる。この戦闘より先に1861年7月2日のホークスランの戦いでジャクソンは敗北したことがあり、常勝と言われたジャクソンにとって第一次カーンズタウンの戦いは数少ない敗北の2つ目となった。 == 背景 == ジャクソンの師団は、ジョセフ・ジョンストン将軍の軍の側面をカバーするためにバレーを昇って後退していた(バレーの南西端の標高が高くなる方向)。ジョンストン軍はセンタービルとマナサスの線から首都リッチモンドの方向へ後退していた。この保護的な動きが無ければ、バンクス指揮下の北軍がブルーリッジ山脈の峠を通ってジョンストン軍を攻撃した可能性があった。1862年3月12日までにバンクスはジャクソン隊が町を明け渡した直後のウィンチェスター市を占領した。ジャクソン隊はバレー・パイクを通ってマウントジャクソンまで42マイル (67 km) をのんびりしたペースで行軍していた。3月21日、ジャクソンは、バンクスが部隊を分割し、2個師団(ジョン・セジウィックとアルフェウス・ウィリアムズ各准将の指揮)がワシントンD.C.の近郷まで戻り、北軍の他の部隊がリッチモンドに対するジョージ・マクレラン少将の半島方面作戦に参加できるようにしたという情報を得た。バンクス軍の残った師団はジェイムズ・シールズ准将が指揮してストラスバーグに駐屯し、バレー下流(北東部)を守っていた。さらに情報ではウィンチェスターに向けて後退していることを示唆していた。バンクスも3月23日にはバレーを去る準備をしていた〔Clark, pp. 65–66; Eicher, pp. 208–10; Salmon, pp. 28–30, 33; Cozzens, pp. 140–52; Tanner, p. 103.〕。 ジャクソンがジョンストンから得ていた命令は、バンクス軍がバレーから去らないようにすることであり、まさにバンクスがそうしようとしていた。ジャクソンは部隊を戻し、この戦争の中でも大変な強行軍を行い、3月22日には北東に25マイル (40 km)、3月23日朝にはカーンズタウンまでさらに22マイル (35 km) を進んだ。ジャクソン配下、ターナー・アシュビー大佐の騎兵隊が3月22日に北軍と小競り合いを行い、そのときにシールズは砲弾の破片で腕を負傷していた。シールズは負傷したにも拘わらず、師団の一部をウィンチェスターから南方に動かし、他方1個旅団を北上させた。これによりウィンチェスターを放棄したように見せかけたが、実際には予備として近くに留めていた。その後、師団の戦術指揮権を第1旅団長であったネイサン・キンボール大佐に委ねたが、戦闘中多くの伝達や命令をキンボールに送っていた。ウィンチェスターの南軍支援者が、シールズが4個連隊(約3,000名)と数門の砲だけを残して、残りの部隊には翌朝にハーパーズ・フェリーに向かうよう命令したとの誤った情報をアシュビーに与えてしまった。アシュビーは通常信頼すべき騎兵斥候であるという評判だったが、このときはその市民の情報を確認もせずジャクソンに伝えてしまった。ジャクソンは、行軍中の脱落者により3,000名まで減っていたその師団で、北に積極的に行軍した。間もなくほぼ9,000名の軍を攻撃することになるとは気付いていなかった〔Salmon, p. 33; Clark, p. 66; Eicher, p. 210; Cozzens, pp. 155–57; Robertson, pp. 338–39.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第一次カーンズタウンの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|