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第一次チェチェン紛争(だいいちじチェチェンふんそう)は、1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン共和国独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で発生した紛争。 ==概説== 1991年、ソ連崩壊の直前であるが、チェチェンでは元ソ連軍の将軍であるジョハル・ドゥダエフを大統領に選出。ソヴィエト連邦離脱法を基に、一方的に独立を宣言した(チェチェン・イチケリア共和国)。(厳密には、連邦離脱法はソ連構成共和国の離脱を念頭に置いたものであり、当時ロシア共和国内の共和国であったチェチェンには適用されない)。当時のチェチェンは、ロシア正教を放棄し、キリル文字からラテン文字に変更するなど、脱ロシア化を推し進めていた。 ロシアのボリス・エリツィン大統領は、内務省治安維持部隊を派遣したが、チェチェン軍の猛反撃に合い撤退を余儀なくされた。 1994年12月、ロシア政府は本格的な武力行使を開始。ロシア連邦軍はチェチェンに軍事侵攻する。しかし、ロシア連邦軍はその圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後の混乱と軍事予算の削減によりソ連時代と比較して大幅に弱体化しており、その脆弱ぶりを露呈することとなった。更にグロズヌイへの空襲は多数の民間人の死傷者を出して国際社会から非難が集中し、イスラーム諸国から多数のムジャーヒディーンと呼ばれる兵が参集する結果となった。 これに対してチェチェンではアル=カーイダのメンバーとされるオマル・ハッダード司令官を中心に反撃。ジハードの為に外国から参戦したムジャーヒディーンと共に戦った。特にアフガニスタンで訓練を施されたアル=カーイダの戦闘員は戦場での攻撃だけでなくロシア国内でのテロ攻撃も行い数百人の死者を出している。 ロシア連邦軍が広域に渡って支配権を回復したことで、ロシア側は1995年、軍隊の撤退を始めた。 1996年5月27日、エリツィンはチェチェンの抵抗運動のリーダーたちと初めて会見した。6月、多大の損害を出しながらもロシア軍はグロズヌイを制圧、掃討戦へと移行した。その後、チェチェン側の指導者ドゥダエフが掃討戦の最中に戦死。8月、双方の間で休戦条約が結ばれ、1997年、ロシア軍は完全に撤退した。 しかし、その後も1998年にチェチェンのイスラーム武装勢力がダゲスタン共和国に侵入を開始したことに呼応しロシア軍も軍事行動を開始。 2000年、ロシアでチェチェンの武装勢力と徹底対決を主張するウラジーミル・プーチンが大統領に就任し、紛争は新たな段階へ移行してゆく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第一次チェチェン紛争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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