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第一次トゥルグ・フルモス攻防戦 : ミニ英和和英辞書
第一次トゥルグ・フルモス攻防戦[だいいちじとぅるぐふるもすこうぼうせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
第一 : [だいいち]
  1. (adv,n) first 2. foremost 3. # 1 
第一次 : [だいいちじ]
 【名詞】 1. the first .. 2. primary
: [いち]
  1. (num) one 
一次 : [いちじ]
  1. (adj-na,n) first 2. primary 3. linear (equation) 4. first-order
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
攻防 : [こうぼう]
 【名詞】 1. offense and defense 2. offence and defence 
攻防戦 : [こうぼうせん]
 (n) battle
防戦 : [ぼうせん]
  1. (n,vs) defensive fight (battle) 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

第一次トゥルグ・フルモス攻防戦 : ウィキペディア日本語版
第一次トゥルグ・フルモス攻防戦[だいいちじとぅるぐふるもすこうぼうせん]

第一次トゥルグ・フルモス攻防戦とは第二次世界大戦中、オットー・ヴェーラー率いる枢軸軍部隊とイワン・コーネフ率いるソビエト赤軍の間で行われたヤッシー=キシニョフ攻勢の一方面の戦いである。
1944年4月前半、赤軍総司令部ウクライナ南西部を担当する2個方面軍にルーマニア北西部に対する戦略的攻勢を開始するよう命令した。ソビエト第2ウクライナ方面軍(司令官:イワン・コーネフ)は4月5日までにトゥルグ・フルモス、ボトシャニ方面へ前進、4月8日にトゥルグ・フルモスへの攻撃を開始した。この地域の防衛を担当していたルーマニア第4軍はドイツ第24装甲師団の装甲部隊で増強されており、赤軍の第一撃を押し止めるだけの準備ができていた。しかし、これらの防衛部隊ではトゥルグ・フルモスに対する赤軍の攻撃に対抗するのが困難であることは明らかであり、町は翌日までにソビエト第27軍の2個狙撃兵師団によって占領された。一方、ドイツ第8軍はこれに素早く反応し、ハッソ・フォン・マントイフェル率いるグロースドイッチュラント師団はトゥルグ・フルモスへ向かい、町を奪還するよう命令した。最初の命令を受けてから48時間後の4月10日夕方までに、グロースドイッチュラント師団は町を奪還し、新たな防衛拠点を築くことに成功した。戦域内で包囲の危機に直面した残存赤軍部隊との散発的な戦いは4月12日まで続いた。
戦いが終わった後、ドイツ軍は町の北西と北東に新たな防衛線を構築し、トゥルグ・フルモスそれ自体の近傍に予備部隊として装甲部隊を維持した。一方、トゥルグ・フルモスで被った敗北に苛立ったコーネフは、4月12日に第2戦車軍に対してPodu Iloaieの村への攻撃を命じた。

==背景==

1944年3月5日、第2ウクライナ方面軍司令官イワン・コーネフはウクライナにおいてウーマニ=ボトシャニ攻勢を開始した。この作戦活動は3月17日までにドイツ軍の北方軍集団所属第1装甲軍と南方軍集団所属第8軍の分断に成功〔Crofoot, p. 151〕 、4月初旬までに赤軍はルーマニア国境まで接近していた〔Glantz, p. 7〕。
1944年4月初旬、赤軍最高司令部は第2、第3ウクライナ方面軍にルーマニア西部において戦略的関連から大規模な攻撃を開始するよう命令した〔Glantz, p. 18〕。最高司令部の戦略的意向はルーアニア北部でドイツ軍、ルーマニア軍の戦略的防衛力を弱め、重要な都市である、ヤッシーキシニョフを占領、その後、ルーマニア領域のプロイェシュティブカレスト近辺まで深く侵入することであった〔Glantz, p. 19〕。4月5日までに第2ウクライナ方面軍はドニエストル川とプルト川の上流を横断、ホチム(en)、ドロホイを占領、ルーマニア軍の小規模な抵抗を排除してトゥルグ・フルモスとボトシャニ地方 -ヤッシーから48km(トゥルグ・フルモス)97km(ボトシャニ)北西地点- へ接近した〔Glantz, p. 29〕。1944年4月8日、コーネフはセミョーン・ボグダーノフ率いる第2戦車軍との密接した協力の下に、第27軍、第40軍にトゥルグ・フルモスの枢軸軍に対して南方へ調和攻撃を行うよう命令した〔Glantz, p. 52〕。コーネフ配下の突撃グループはトゥルグ・フルモス方面へ進撃、ヤッシー北部で作戦活動を行っていた第52軍(司令官コンスタンチン・コロチェーエフ)と第6戦車軍(司令官アンドレイ・クラフチェンコ)〔Armstrong, p. 450〕はコーネフの主要活動を支援するためにヤッシーの枢軸軍のそばで作戦活動を行っていた〔 。

コーネフ配下の部隊がトゥルグ・フルモス方面へ攻撃開始準備を行っていたため〔Glantz, p. 59〕、赤軍はドイツ第8軍(司令官オットー・ヴェーラー)とヤッシー北方14kmにあるPopricaniの村内外で激戦を展開していたが、ソビエト2個軍団がドイツ軍の装甲戦闘団と戦うことにより、ドイツ軍の注意と部隊を散らせる作戦を行っていた〔Glantz, p. 56〕。ヤッシー方面では第52軍が陽動作戦を行っている間の4月8日朝、コーネフ配下の突撃グループの3個軍は南へ進撃を開始した〔Glantz, p. 60〕。しかし、この進撃は春季の泥濘期(Rasputitsa)のために、ヤッシー北西のプルト川を西岸へ横断することと同じぐらい遅々として進まなかった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第一次トゥルグ・フルモス攻防戦」の詳細全文を読む




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